ふたりは水草の浮いた池のある庭をならんで歩きながらしばらくなにも話しませんでした。池のほとりには赤いチューリップの花が咲いています。小橋をわたり、茨のアーチをくぐり、青い木漏れ日のおちた道をしばらく行きました。
王さまはふたりの姿を窓からながめ、将軍の報告を聞きました。
年老いた将軍はつづけました。
「さらに申し上げます。モナカイは勢力を増大させ、マガラの北において当方の駐留軍と衝突。たいへん嘆かわしいことに我が軍は敗れさりました」
ふりむき王は顎(あご)に手をあてます。
「このままではマガラは敵の陣営に落ちる」
「はい。大至急応援の部隊を送らねばなりません」
「将軍」
「何でしょうか」
「大佐を残すわけにはいかないだろうか?」
「それは無理です」
「なんとしても、であるか?」
「はい。勝利するためには・・・・なんとしても、です」
「なんとしても。・・・・そうか」
庭にうららかな陽がそそいでいました。
そこでメリサは、大佐の顔をちらっと見ると、
「お好きなものはなんでしょう?」
と訊きました。
「はい王女様。それは貴女です」
「今、なんと申されました?」
メリサは急に立ちどまりました。
大佐はすこしゆき過ぎて止まり、
「王女。何度でも申し上げます。世界で一番好きなのは貴女です」
ふりむき応えました。メリサはそのあと何も言えなくなりました。
「失礼。ご気分を悪くされましたか?」
「いえ。大丈夫です。」
ふたりは口をつぐんでまた歩きだしました。
広大な敷地を被う緑の毛並み・・・・短く刈られた庭の芝草が艶やかにかがやいて見えます。
「ドメル大佐!」
侍従が走ってきました。「王さまがお呼びです。至急お城におもどり下さい」
「わかりました。――王女。どうかお許しを」
「お気にされずに」
大佐が行くのを見届けて、
「王女。ちゃんとお話になれましたかな?」
よぼよぼした顔で侍従は訊きました。
「いえ。残念ながら」
メリサはそう言うといつになく清々しい顔で遠ざかってゆく大佐の背中をみつめていました。
その夜のことです。妃は煌めく小さな明かりを灯して鏡の部屋にはいりました。
確かに・・・・彼女は鏡のまえに座っていましたが、縁飾りのある鏡台の楕円の鏡のなかには、ただ闇だけがうつり妃の顔はありませんでした。廊下には見張りの者が立ち、なぜか上着のポケットからドングリをとりだすと耳に詰めました。
「わたしの愛する者よ」と言い、妃はいま着ている紫のドレスの胸元を引き裂きました。「ここには何もなく憎しみと哀しみだけがすべて。あなたはわたしを裏切り、わたしはひとり取り残された者のように力なく生きた。あなたが教えてくれたのは真実。今ここに何もないことと憎しみと哀しみがそのすべてだということ。わたしは誓った。あなたがわたしに教えてくれたように、わたしもまた人々に真実を知らそうと。愛とは憎しみへの扉。夢は悲しみへの扉・・・・」
すると鏡はゆらぐ湖面のようにぼんやりと何かを映しだしました。やがてそこに現われたのは敵国モナカイの王でした。
王はひどくおびえた様子でこちらを覗いています。
その顔がはっきりとうかんだとき、彼は言い放ちました、
「妃、いえ・・・・ヘレンさま。このあとベネトリアン国が援軍をひき連れてやって来るでしょう。しかし我らにはそれに立ち向かうだけの余力はありません。それにマガラにはまだ強力なベネトリアン国の部隊が残っていると聞きます」
「さわぐんじゃないよ」と妃は言いました。「タルシンとの同盟は生きている。さらに全地の諸王はベネトリアン国をうとましく思っているからね、それよりも何よりもおまえさん方がしっかりしてくれないとタルシンの連中までが恐れをいだいて逃げだしてしまうじゃないか。しっかりおし!」
その声はもはや妃ではなく魔女へレンのものでした。「いいかよくお聴き、おまえさん方の善戦の報をうけてタルシン、そして東の国々までもが援軍としてやって来るんだ。スゴイことになっちまうよ、きっと。それまではマガラの北の町をなにがなんでも守るんだね」
「ヘレン様・・・・」
まだモナカイの王が何かを言いかけましたが、ふたたび鏡に闇がありました。
「妃、そのお姿はどうされたのですか?」
次にタルシンの国王が鏡の面に映しだされました。
「はい、ついさきほど王に・・・・」
ヘレンはわざとしおらしい声で答えました。
「なんという奴・・・・許せん!」
「貴方さまに一刻もはやくお逢いしたいです、どうか早く」
「妃!」
たちまち鏡に闇がありました。
そしてヘレンは妃から自分自身「魔女へレン」の姿にもどると、鏡のまえでまた呟きました。
「闇よ。憎むべきわたしの愛する者よ・・・・」そしてこう言いました、「あなたが求めるように生き、裏切り、男たちをだまし、殺し、この地から希望と愛をすべて焼き払い、平和の町を娼婦と乞食のさまよう荒野に変えたわ。それでもあなたは帰らない。なぜ? だから今度こそ本当にすべてを焼き払ってみせる。本当よ! だからお願い、たったひとことでいいの。何か言ってちょうだい、お願い!」
それからとつぜん、「わあー」と泣きだすと床に倒れてさらに泣きじゃくりました。
元気なく萎れ(しおれ)はじめた花たちをながめ、メリサはどことなく暗い顔をしていました。椅子にかけたまま力なく右手で魔法をつかうとたちまち花は活きいきとした姿によみがえりましたが、
「こんなちっぽけな魔法では誰も救えないわ」
そうつぶやくとメリサはふたたび読みかけの手紙に眼をおとしました。
「親愛なる王女様 今、マガラの南にはいったところです。ついさきほど雨が降りましたが、兵たちはいたって元気のように思われます・・・・」
耳についさきごろ交わしたばかりの大佐との会話がもう一度くりかえされました。
「行かないでください。これは命令です」
「いえ。たとえ命令にそむいてもわたしは行くでしょう」
「あなたが行かなければ誰も死なずにすみます」
「いえ。いま行かなければやがて大勢が殺されるでしょう」
瞼を閉じると、戦地によろめく人影がありました。彼は傷ついて片腕をぶらさげるような恰好で歩いていました。顔も汚れていましたが、その顔をよく見るとひどく大佐に似ていました。彼はもう片方の手でわき腹をおさえ、どんより曇った空を仰いでこう言いました。
「王女。どうかもういちど貴女の顔がみたい・・・・」
倒れるさまを見てメリサはもう、そこにいました。
「大佐。わたしです」
抱きおこすと大佐はうすくひらいた眼で彼女を見ました。
「・・・・」
「なにか仰ってください、なんでもいいから」
「・・・・」
大佐はなにも言わずただようやく笑うように口元をゆるませました。がれきのころがる破壊された街に一粒のいのちが消えてゆきます。
メリサは涙のかわりに微かにふるえるような笑みをうかべました。切れ切れにやぶれ散ったベネトリアンの赤い国旗にかわり、街のそこかしこにモナカイの爽やかな青の軍旗がはためいていました。
「突撃は、よわき者たちへの愛。さあ、一刻もはやく楽にしてあげよう。永遠にキミを眠らせてあげる。そしてこのボクも、どうか眠らせておくれ・・・・ああ! 兵士の休息は、死のみ」
ひどくヘンテコな詩を、一風変わった身なりの男が詠(よ)みました。男はひろげた羊革の巻物を手に、城門の入り口にある詰め所のまえに立って自作の詩を吟じはじめたのです。
「不謹慎な。このたわけものめ!」
間もなく番兵にとりおさえられましたが、メリサはその様子をちょうど今しも城へもどる馬車のなかから目撃しました。
「きっとここをやられているのでしょう」
頭に手をやって侍従が言いました。
「かわいそうに」
メリサがふたたび窓をのぞくと男は笑ってこちらを見ていました。その首にエスターのネックレスがあります。
「さきほど街でも騒ぎをご覧になられましたように、城のまわりにも不穏な空気がただよっているようですな」
メリサは窓の際にぶら下がった紫の紐を引きました。呼び鈴が鳴り、従者が馬車をとめます。
「どうされたのです? 王女」
「侍従。あの者をこちらに呼びなさい」
「いえそのようなことは・・・・」と言い、王女を見るといつになく険しい顔がそこにありました。
やむなく侍従は窓から顔をだし番兵に命じました。「こちらにお連れしなさい」
やがて馬車の外に番兵が男をつれて立ちました。メリサは小窓からふたりを見下ろし、
「名はなんと?」
男にむかって尋ねました。肩にさげた皮袋にはたくさんの巻物が詰めてあります。
「アスフィール。名もなき吟遊詩人にございます」
「そなたの首のネックレスは、いったいどこで?」
「はい。かつて王女様にお仕えされた教師エスターより頂きましたものにてございます」
「ではエスターを知る者であろう」
「仰せのとおり」
「番兵。もう下がってよろしい」メリサはさっそく扉をひらき言いました、「すこし狭いですがお乗りになってください。お聞きしたいことがまだまだあります。それとそのネックレスですが、どうかお城では外されますように。王が不快に思われます」
さて、
「目当てはこの食事でした」
詩人はひどく腹をすかせており、つぎつぎにはこばれる料理をむさぼるように食べながらつづけました。「しかし王女。貴女も夢の国でお育ちになられたとは。つゆとも存じませんでした」
「はい。生まれたのち三ヶ年のあいだ暮らしましたのよ」
メリサは詩人の食べるさまをやや離れた席から見守り、「ああ。永遠のバラの咲く庭と夢の広場、虹色にかがやくクリスタルの門と無数の蝶たちがとびかうお花畑の屋根・・・・」まるで夢見るように話しました。
「そこで育つ子らは皆やがて音楽や詩をつくる者となって出てゆくのです」
「大勢の人たちを幸せにするためにですね」
「いえ。魔王のためにです」
「はい。魔王ですか?」
詩人はそこでパンをちぎると口にほおばりました。
「はい。彼――魔王は地底のとても深いところにいて絶えず苦しみもだえています。そのため誰かがいつも美しい曲や歌をうたって同情と慰めを与えなければなりません。すべての音楽が素晴らしいのは、彼に対する憐れみの念がふかく人間の領域をこえて働いているためなのです」
「知りませんでした」
「美とはそのようなものです。しかしどれほど美しい旋律であろうと、また甘美な調べであろうとも魔王の心の闇を永遠にふさぐことはできません。底なしの闇はけして美によって満たされることはないのです」
「ではあなたも・・・・魔王のために?」
「はい。でもまだ名を馳せてはおりません。才能というより彼に対する“憐れみ”がボクにはまったくないのです。魔王のお気に召していただくにはずいぶんとまだ時間がかかりそうですね。名声は、魔王があたえる評価のあらわれですから」
「それではお食事のあとあなたのお作りになられたものをお聞かせいただけますでしょうか?」
「はい。よろこんでお聞かせいたします」
王女の客間にうつり、やがて彼は窓辺に立って自作の詩を吟じはじめました。
涙がこぼれ落ち 美しく、せつない想いが胸を焦がし
たとえ 法を犯しても君を連れてゆこう!
くちづけをして、
さらにくちづけをして
強くつよく抱きしめて
愛する君を
死にいたらしめるほどに強く!
僕たちは待っていた
僕たちは待ちつづけた
夢が
水晶の花が、
虹色に咲き乱れる 都へ
君と ゆく日の来ることを!
降りそそぐ 黒い雨のしずくさえ
今ではもう、さして苦ではない
煮えたつ海や
落ちてくる 星の災いも
まるで夢見るようにすぎてゆく
空が燃え
闇が全地をおおっても
君が信じたように、
愛は けして滅びることがなかった
辱められても
髪を切られても、
僕たちはまだ夢をみている
やがて一陣の風がふき 涙にぬれた頬の乾くとき
僕たちは もう、ここにいない
湖畔の景色を一望する窓辺を離れ、
「いかがでしょうか?」
そう言って詩人は一礼しました。
「たいへん感銘いたしました。もっとお聞かせいただけませんこと?」
「はい。でもこの詩のほかはどれも魔王のために作ったものですから・・・・」
「では今、お詠みになられたのは誰のための詩ですか?」
「愛する人へのものです」
「まあ。愛する人・・・・よろしいですわね。きっとお美しい方でしょう。その方は今どちらに?」
「じつは大勢います。ですから“あちこち”と答えるべきでしょうか」
「まあ」
メリサは呆れました。
それから間もなくのこと。侍従がよぼよぼした顔をひどく強ばらせてやって来ました。
「お越しいただけますでしょうか」
メリサは詩人と輪投げをして遊んでいましたが、
「わかりました」
と言うと、「アスフィール、つづきはまたこの後で・・・・」
たったいま投げようとしていた輪のひとつを詩人に渡して出てゆきました。
ややあって王女は妃とともに玉座の一段下がった席におりました。
接見の間には城じゅうの者があつまり固唾をのんで王のご登場を待ちわびています。城下にひろがる不穏な空気もあり、またよくない噂も飛び交っていましたので皆は「ついに来たか」という面持ちでした。それでも王さまは赤いマントを翻し、なぜか不敵に笑ってあらわれました。
王さまは颯爽と玉座に就いたのち杓をもちあげ、
「諸君!」
と、言いました。そのあと広い部屋の隅々をまんべんなく見渡し、「案ずるではない」とつづけました。「ついに余みずからが戦地に赴くべきときが来た。しかし余は敵をみごと打ち破りふたたびこの国に平和と繁栄をもたらすことを約束する。その間、今ここにいる者たちが一致協力し、全力をもって城を支えいただきたい。尚、余の留守を護るすべての者に言っておく。余はこの僅かばかりの期間、全権を妃に与える」
その言葉のあとにしんとした静寂がありました。「さて」王は杓をおろし膝にのせました。「戦局については正しく知っていただきたい。我が軍のマガラにおける敗北はいくばくかの辛酸を甞める結果をもたらしたものの、現存する我が王国の部隊は真の実力を秘して今も確固不抜たる余力を保っている。すなわち、余を頭とする勢力をもってすれば敵の陣営を打ち砕き、さらに再度マガラを取り戻すこともけして困難ではない」
妃が合図を送り、かなた視線の先にいる従者がとつぜん、
「そのとおり!」と叫びました。
「うん」王さまは相槌をもって応えました。「しかしここにまた諸君を悲しませることになる事実も知らせよう。というのは、永年にわたり余の側近として仕えた書記官モーリスの裏切りである。彼は信じがたいことに敵モナカイの間諜であった」ここで一度どよめきがおきました。王は杓をふってその場を鎮めます。「いやいや。その罪は死によって償われ、彼はもうすでにいない。悪の病根はとりのぞかれ、我が王国は晴れわたる空のようにかつての健康をとりもどしたといえよう。まさに直面する危機は彼によるもので、彼亡き今、一点の問題もこの国には存在しないのである」
妃の従者から起こり、はじめまばらだった拍手も、ぽつりぽつりと輪をひろげ、やがてついには城をおおいつくほどの渦となって捲きおこりました。
つづく・・・・