なぜ書くか、あるいは15分間で何が書けるか
んなこたーない

書くという行為を問題にするとき、いくつかの進め方が考えられる。
「なにを書くか」「どう書くか」「なぜ書くか」などなど。
これらはそれぞれ截然と独立している問題なのではなく、混淆としているのが実際の状況である。
それでもなお、ぼくはこの中では「なぜ書くか」を最重要視する。

ひとつには、ぼくにとって書くという行為が非日常的な行為であり、
そのためどうしたって意識的にならざるをえないからだ。
オーディオビジュアル世代以降に生まれ育った筈のぼくが、
ネットによってまた文字に面するようになったというのは大して面白くもない皮肉である。
一時期ぼくはスタンダールに凝っていて、彼がいわゆる「書き魔」であったことを知り、
是非とも真似てみたいと思ったものだが、やはり長続きしなかった。
いまでもなお書く(実際にはタイプを打つ)ことは、ぼくに新鮮な戸惑いを与える。

ふたつには、雛鳥がはじめて見たものを親だと思うのと同じように、
最初に入れ込んだのが瀧口修造だったせいである。
詩集らしい詩集を一冊も残さず(これは出版社側の手落ちという外部上の原因もあったようだが、
彼が一般的な「詩集」という形式に特別拘泥していなかったのは明らかである)、
「詩は行為である」と書く瀧口を読めば、誰でも「なぜ書くか」という
あまり気乗りのしない問いの前に嫌がうえでも立たされてしまうことだろう。

これは何よりも瀧口がシュルレアリストであったことに原因がある。
日本のモダニスム詩人のなかで、真のシュルレアリストと呼びうるのは瀧口ただ一人であるというのは、
大方の批評家の一致するところであると思う。

シュルレアリスムの理論はブルトンが発明したものではなくとも、
それをひとつの体系にまとめたのはブルトンの功績である。
「自動筆記」にしろ「優美な死骸」にしろ、それは文学的方法論でも言葉の意匠のためのものでもない。
その運動が目指したものは大文字の「革命」であった。
ブルトンはかなりのヘーゲル主義者のようだが、フロイトの無意識とランボーの沈黙が
彼に強い示唆を与えたことは論を待たない。
彼らの創出した方法が孕む危険性やその失敗はブルトン自身が強く痛感しているものでもある。
いまさら彼らの方法を真似てみても、退屈の上塗りをするだけで終わってしまう。
「革命」の真の意義を汲み取らなくてはならぬ。

いま現在、「おかあさん革命は遠く去りました」という詩句が遠くへ去ってしまったと同程度に、
ぼくらはシュルレアリスムから遠ざかっている。
しかし資本主義が最終解決に至っていないのとまた同程度に、シュルレアリスムはぼくらに宿題を残したままなのである。


散文(批評随筆小説等) なぜ書くか、あるいは15分間で何が書けるか Copyright んなこたーない 2007-02-26 16:21:08
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