創書日和「炎」   かげろう
逢坂桜

  「冬から春へと変わっていくだろう?陽射しとか」
  わたしはうなずいて、コーヒーをひとくち飲む。
  「ふと思い出すんだ」
  またしても、わたしはうなずく。
  夫はまだ、コーヒーを飲んでいない。
  「言い訳じゃないけど、いつも考えてるわけじゃないよ」
  わたしはうなずく。
  「あれからもう20年経っただろう?おまえと結婚しても10年だ」
  コーヒーを忘れた夫の熱弁は続く。
  確かに20年経ったが、結婚は12年2ヶ月だ。
  「やましい意味じゃないさ。ただ、ふと、思い出すんだ」
  また、わたしはうなずく。
  「春先の・・・陽炎のような・・・なぁ?」
  子供の頃から病弱だった。
  色白で、ほっそりとした腕に、青白い血管が透けていて。
  いつも、ほんのりと見つめて、微笑んでいた。
  「あいつがよろこぶなら、ずいぶん無茶もしたよ。なぁ?」
  わたしはうなずく。
  あなたがよろこぶことは、あの子がよろこぶことだから。
  「あいつのこと、あのころのこと。全部、なつかしいんだ」
  夫のコーヒーに手を伸ばす。
  冷えていた。

  「あの人のこと・・・お願いね。あなたしかいないの」
  桜が散る頃だった。
  病室に夕焼けの長い陽が差し込んでいた。
  すでに、上半身を起こすこともできなかった。
  「というより、本当はあなたのだったのよ。
   めずらしいあたしに、眼を向けてくれただけ。
   お返しするわ」
  声を出すのもつらいはず。
  主治医の言葉に、嘘はないようだ。
  「思い込みの激しい人だから、すぐには無理だと思うけど。
   気長に待ってあげて。
   いつかはあなたに気づいて、寄ってくるわ」
  天井だけを見つめて、とてもとてもちいさな声で。
  「あたしが先に死ぬから、あの世で、出迎えてあげる。
   あなたとあの人、どちらが先に来るかしら」
  死者と生者をはさむ川。
  あの人はどちらを選ぶだろう。
  彼女はどちらの手を取るだろう。
  「いままで楽しかった。友人と呼べるのはあなただけよ」
  いのちがゆらめく。
  「あたしのいちばんだいじなモノをあずけるのは、あなたよ」
  さいごの、ほのお。

  最期の炎。
  陽炎のように儚い女の、燃えさかる炎。
  わたしには、なによりまぶしく、なによりあつかった。
  彼女が命をかけて紡いだ言葉は、いまもわたしを縛っている。
  夫が心を捧げたのは、あの女なのだ、と。

  ―あの春の日、彼女にすべてを捧げたのは、わたしもまた―


自由詩 創書日和「炎」   かげろう Copyright 逢坂桜 2007-02-24 20:03:54
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