「現実の世界」と「物語の世界」
相良ゆう
人は「現実の世界」と「物語の世界」という二つの世界に住んでいるのだと、最近は思うようになりました。
しかもどちらか好きな方を選んで、好きな世界にだけ住むことはできなくて、
必ず二つの世界にまたがって存在しているのだと、考えるようになりました。
そしてあらゆる世界の前提として「現実の世界」があり、
その上に「物語の世界」があるのではないかと感じるようになりました。
「現実の世界」とは、わたしたちが接触することで知覚する世界と定義してみます。
触ることによって初めてわたしたちが他のものとの関係を持つ世界です。
この世のあらゆるものは接触することによって知覚されます。
音を知覚するときですら、空気との接触が必要なのですから。
この世界は本当に淡々としていて、いわゆる物理的法則の範疇を出でない運動、
因果関係によって合理的に説明できるような運動をするだけの世界です。
そしてこの世界の最も基本的なルールは、「今」「此処」という
時間的にも空間的にも制限があるということです。
わたしたちはこの世界を前提として生きています。
わたしたちが生まれたときにはすでにこの世界の法則は成立していて、
わたしたちはそんなことは何も知らずに、
その成立している法則の中に突然放り込まれたのです。
わたしたちは否応なしに「現実の世界」の法則に支配される運命だったのだと、
表現できるかもしれません。
その意味で、生まれるとは従うことであると、言えるのかも知れません。
わたしたちにはこの法則を破ることは絶対に不可能です。
なにせ凡ての法則を把握することすら、わたしたちには不可能なのですから。
さて、わたしたちは生まれたその瞬間から「現実の世界」との関係交渉に入ります。
現実の世界にはわたしたち以外にも様々なものが用意されていて、
それらと関係交渉することで、自と他の区別を覚えていきます。
自分以外にもこの世界に存在するものがいることを学ぶのです。
しかもそれは自分とは全く他なるものであり、絶対的に異なるものです。
その意味で、わたしたちは自分に対する他者が居ることを、
現実の世界における関係交渉から学ぶのです。
そして他者の存在の認識は自己の存在を意識させるにいたります。
これがいわゆる自我の萌芽となるのです。
ここまでは「現実の世界」とそこに於ける関係交渉の基礎を考えてみました。
しかし冒頭に述べたように、わたしたちは現実の世界にだけ住んでいるわけではありません。
わたしたちはその上に、「物語の世界」にも同時に住んでいるのです。
では「物語の世界」とはどんな世界なのか。
それは「現実の世界」における何者とも接触することなしに知覚される世界と定義してみましょう。
少し抽象的過ぎるでしょうか。
この世界は「現実の世界」とは全く異なる世界で、
この世界では「現実の世界」に存在するものとは接触することができません。
「物語の世界」は「現実の世界」を基に作られた世界なのですが、
「現実の世界」の法則は実はこの世界では通用しません。
「物語の世界」には「物語の世界」のルールがあるのです。
それは「今」「此処」という「現実の世界」の基本的ルールに縛られない代わりに、
わたしたちは「物語の世界」から外には出られないというルールです。
「物語の世界」はわたしたちの中にどのように作られたか。
それについては「現実の世界」における関係交渉で得られた、自と他の区別から話を続けたいと思います。
「現実の世界」でわたしたちは自と他の区別を知りました。
そして自分と違うものが他にもたくさんあることを学んでいきます。
そのうちに、自と他の区別だけではなく、他と他の区別をも学んでいきます。
それと同時にわたしたちはあることを教わります。
それは自分を含めて、「現実の世界」のものには「名前」があるということです。
こうしてわたしたちは、ものの「名前」を覚え、「名前」を使うようになります。
ひとつ「名前」を覚えるたびに、「物語の世界」はどんどん広がってゆきます。
物には「本」とか「くるま」という「名前」があり、
運動には「読む」とか「走る」という「名前」があり、
状態にも「静か」とか「うるさい」という「名前」があることを知る頃には、
わたしたちは「現実の世界」よりも「物語の世界」に住処を移したかのように、「物語の世界」に浸っています。
こうして「現実の世界」を基に「物語の世界」は確立されました。
実は言葉をつかうこと自体が、物語の世界に生きるということなのです。
わたしたちはもうすっかり「物語の世界」に浸り、
「現実の世界」を忘れてしまっているかのようです。
それは現在使われている「名前」の多さを見てもわかることでしょう。
しかしわたしたちは同時に「現実の世界」にも生きています。
全く同時に「現実の世界」と「物語の世界」に生きているのです。
ここで「現実の世界」と「物語の世界」の基本的ルールを目を向けてみます。
「現実の世界」には「今」「此処」という時間的にも空間的にも制限がありました。
しかし「物語の世界」にはその制限がありません。これはどういうことか。
わたしたちは根本的には「現実の世界」を土台として生きています。
「物語の世界」は「現実の世界」を解釈する世界でしかないのです。
しかしその解釈の世界は、現実を解釈するには不適当なルールが適用されてしまっている。
つまり、本来ならば「今」「此処」でしか把握できないものを、
「物語の世界」においては「過去」のものとしても「未来」のものとしても、
把握できてしまうということです。
わたしたちは常に現実を誤解してしまうという状態に陥ってしまっているのです。
わたしたちは「現実の世界」に生きてるにもかかわらず、
常に「現実」を見誤ってしまうというジレンマに陥ってしまっているのです。
このジレンマが実際どのように表出してくるのか、わたしたちは常に肌で感じているはずです。
わたしたちは常に相手に自分の意志を完全には伝えられていない。
お互い常に誤解が付きまとっている。
そのように感じることが多々あるのではないでしょうか。
相手のことを理解できないことから来る悲劇は、世界中どこへ行っても絶えません。
だからこそわたしたちは、自分を最も適切に表現する方法を学び、
それ以上にしっかりと人の話に耳を傾ける精神を学ばなくてはいけないと思います。
誤解は絶対に避けられません。
でも誤解を恐れずに、真摯に対話をすることができる。
わからないことは素直に尋ねることができて、わかるまで素直に説明することができる。そんな人になれるよう努力したいです。
人は「現実の世界」と「物語の世界」の両方に住んでいます。
問題ばかりの世界かもしれません。
自分のことは理解されないし、相手のことは誤解してしまって、
すれ違いばかりかもしれません。
でもそんな世界の中で互いに互いを尊重し受け入れることができたら、
それは「奇跡」といってもいいくらいのことだと思います。
でもわたしは「奇跡」は起こると信じています。