下敷きになった卵みたいに
カンチェルスキス
路面が凍りそうなほど寒い朝
彼は社長を迎えに行った
自宅に着くと
リビングのソファで社長が
頭から血を流して倒れていた
頭の中身は
アンティークの柱時計に飛び散って
ふかふかの絨毯の上には
仲の良かった社長夫人が
胸から血を流し
床には拳銃が一丁
転がっていた
抱きかかえたけれど
もう息もなく
二人の身体は
まだ生温かかった
彼はタクシーの運転手だった
警備員の日焼けのように浅黒く
大柄だった
そして声がでかく
相手が近くにいるのに
遠くにいるみたいに
しゃべったから
苛々してるときには
人に内心うっとうしがられた
胃潰瘍を一度患い
毎日食後の薬を欠かせなかった
酒は飲んだが
タバコは吸わず
爪が伸びるのを嫌い
小まめに爪を切るせいで
いつも深爪になっていた
社長夫婦の自殺の後
会社の多額の債務が発覚し
人員整理が行われ
彼は仕事をクビになった
同じ頃
大切に育てた愛娘が
自分の気に入らない相手の子どもを
妊娠した
激怒した彼の怒りは
愛娘にではなく
妻に向けられた
おまえの育て方が悪かったからだと
妻をなじり
暴力をふるった
そのうち娘は男と家庭を持ち
そこに妻も避難して
離婚は成立した
そして彼は独りになった
団地の6階に暮らし
わずかな退職金を頼りに
夕食のおかずは
8時以降のスーパーの
半額の惣菜や焼き魚と
自分で作った一品が多かった
ごはんはまとめて炊き
余った分は
ラップに包んで冷蔵庫に保存し
食べるときにその都度
電子レンジで温めた
一人暮らしにも慣れた頃
彼は元の妻と
近所でばったり
出くわした
再婚相手を見つけた妻は
ふくよかで健康そうだった
元気でやってるか?と
彼が訊ねると
元気でやってるわよと
妻は答え、そのまま
彼の前を歩き去った
あんたはどうしてる?という
軽い受け答えすらない妻の背中を
彼は何となく目で追うのが
やっとだった
それから
たまに仕事をさせてもらう
地元の宅配便の会社の社長に
久しぶりに会った妻の印象を
訊ねられたとき、彼は笑いながら
こう答えた
あいつ、ぶくぶく太りやがって
幸せ太りってやつですよ
もう壊れた掃除機より
使い物になりゃしねぇ
仕事仲間だった連中と
週に何回か
なじみの喫茶店で
自分でやることはないが
パチンコや競馬の話の輪に加わり
たまに食品コンビナートの堤防で
アジ釣りをした
生まれた孫には
会わせてもらえなかった
団地の階段を
上り下りする足音が
だんだん
甲高く耳障りに
響くようになってきた
夕食のとき
服の袖にひっかかって
テーブルの箸が片方落ちた
落ちた箸を見て
彼はわけのわからない怒りで
もう一本の箸を
床に投げつけた
頼みの綱だった
宅配便の仕事の件数が
減りはじめ
会えば笑顔を交えながら
会話もする社長から
来月から来なくていいと
告げられた
表向きの理由は景気の悪さだったが
能力もないのに
あれこれ仕事に注文をつけるのが
社長としては
気に食わなかった
彼はその一週間後
仕事を自分から辞めた
そうすれば精神的な痛手が
やわらぐからだった
彼は自分の車を売り払い
移動手段を自転車に換えた
警備会社に登録し
週に何度か
道路工事や建築現場の前に立った
もともとの声がでかい割に
路上に立ったとき
彼の声は
ほとんど聞き取れないぐらい
小さかった
会社の責任者からは
通行人に必ずひと声
ご迷惑おかけします、と
声をかけるように言われていたが
実際には腕を無造作に振ったり
少し会釈するぐらいで
済ませるだけだった
なるべく目立たないように
一日の仕事を終えるのが
彼にとっていちばん重要なことだった
飲酒の量が増えたことと
排気ガスや直射日光のせいで
彼の顔はますますどす黒く
見る人によっては
グロテスクになっていった
自殺した社長夫婦の夢を
たびたび見るようになった
思い出して
恐怖を覚えるのは
えぐれた頭部やあふれた血など
凄惨な現場のことではなく
二人を抱きかかえたときの
まだ生温かい
体温の感触だった
彼は以前から
仲間が集まる喫茶店などで
自殺現場との遭遇を
好んでしゃべっていたが
もう口にしなくなった
夢を見るようになってから
自分の腕や肩口に
二人の生温かさが
彼を海底に沈める鉛のように
重くのしかかった
なぜだかわからない
それを振り払うために
彼はナイフを持ち歩くようになった
護身用と言うより
精神を安心させるものとして
必要だった
凍結しそうな路上に
何時間も立ち
寒さで内臓や細胞までも
コンクリートになったような重さを
抱えながら
彼は警備員の一日を終えた
仕事の後はいつも
早く身ぎれいにしたかったから
近くの公園のトイレで着替え
自転車の前かごに
制服やヘルメットや誘導棒を載せ
夕食のおかずを求めに
スーパーに行き
半額になったチキン南蛮と
湯豆腐にするための絹ごし豆腐と
12個入りの卵のパック
紙パックの1.8ℓの芋焼酎を買って
家路に向かった
その帰りに彼は図書館の前で
オートバイの警官二人に
自転車の無灯火を注意され
口論になった
仕事で疲れ
早く帰りたかった彼は
無視しようとしたが
前と後ろで通せんぼされた
防犯登録の確認だった
その間
馴れ馴れしく話しかけてくる
警官の言葉や調子に
彼はひどく苛立った
自分の思い通りにならないとき
彼は見境がなくなった
妻を殴るときも
こういう感じになった
彼は持ってるナイフを
警官の首すじに突き立てていた
刺さったナイフを抜き
今度はみぞおちの辺りに
何度も突き刺した
無線の警官が
取り押さえようとしたが
彼は凶器のナイフを握ったまま
自転車に乗り逃走した
4、5メートルほど走った先で
警官が発砲した2発目の弾丸が
彼の右足の踵に命中した
3発目は彼の背中
正面からだと胸のあたりに命中し
彼は自転車もろとも
地面に投げ出された
彼は社長夫婦のあの体温の感触を
思い出した
自分にもその熱があり
そしてそれが今この間にも
刻一刻と
なくなっていくのを感じた
そしてその通り
彼の残りわずかな熱は
どんどん
なくなっていった
うめき声や人があつまる音
近づくパトカーの音
近くの鉄工所から立ちのぼる煙
彼には何も見えなかったし
何も聞こえなかった
路上にうつぶせで倒れていた
倒れた自転車の前かごから
作業着やヘルメット、誘導棒
チキン南蛮や絹ごし豆腐
パックの焼酎が
路上に投げ出されていた
警官が駆け寄り
彼を抱き起こす頃には
彼の息はもうなかった
自転車の下敷きになった
パックの卵はほとんど
潰れていた