モノサシ
はるこ


ひとはそれぞれモノサシを持っていると思う。
それは時にいろいろなものを指すが、今ここで言いたいのは「常識」の類のモノサシのことである。

正直な話わたしは、大学に入るまで自分と明らかに違うモノサシを持っている人がいることに気付いていなかった。
肌では感じていたが、認識として理解するに至らなかった。
(そのために中学などでは自我を通して痛い目に遭うことが多々あった)
だが、大学でサークルに入ってはじめて、わたしの理解を超えるひとがおり、しかもそのひとと話し合っても理解できない、言わばモノサシがさっぱり違うひとがいることを発見した。
その時、わたしは「諦める」ということを知ったように思う。
上辺だけで会話をし、内心ではいろいろなこと思うようになった。

貧しい付き合い方かも知れないが、その頃から、ひとと出会うと付き合っていくうちに、どういうモノサシを持った人かを判断し、それによって自分の態度や踏み込み具合を変えていくようになった。
(でもそれが大人の付き合い方というものであるようにも思う)
自分勝手なわたしは、モノサシが違うひとと付き合おうとしなかったし、理解しようともして来なかった。

でも、ひとは星の数ほどいる。
モノサシが違って当たり前なのである。
今、わたしは、これまで自分勝手な付き合い方をしてきたために、モノサシが違うひととどう接していけばいいのかが分からない。それは、今後また接していく中で模索していかなければならないのだろうか。

そして、結婚。
結婚相手はモノサシが違うともう無理な気がするが、実際どうなのだろうか。
でもやはり根本的なモノサシが違うと、ひととして共に生活していけないように思う。
こう考えてしまう時点でもう間違っているのだろうか。

わたしは今とても困っている。
モノサシがあるって面倒くさいことだなぁと思う。
でも時に、とても切なくもなる。
モノサシを放棄したくなる。でも、モノサシはわたしの中にあって、とても重要な役割を果たしている。

あなたは「モノサシ」についてどう思いますか? ご意見聞かせてください。


散文(批評随筆小説等) モノサシ Copyright はるこ 2007-02-01 00:02:13
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