感想妄想批評妄想
佐々宝砂

今日も仕事(早朝コンビニバイト、毎日ではないだす)前にいっちょオン書き即興詩、と思ったのだけど、今夜はなんにも思いつかないのでオン書き散文にしてみる。

バナナと豆乳とキャラメルの大量摂取&丹田式呼吸によりセロトニンがぐわーと出まくったせいか、セロトニン再取り込み抑制剤パキシルをいちんち40mgも摂取しているせいか、とにかく鬱は脱した。現在私は偏頭痛性閃輝暗点に毎日悩まされてはいるものの、頭痛前兆だけで終わることが多く頭痛にまで悪化することはあまりない。嘘か夢かと思えるほど、不必要なほどに元気であり、しかもありがたいことに躁ではない! これまでの経験上、こんな調子いい時期が長く続くとは思えないので、いまのうちに働かねばならんと思い、とりあえず4月1日付からポエトリー・ジャパン(通称PJ。http://www.poetry.ne.jp/)ライブラリの新着に一言感想をつけまくっている。短い感想だが1日に5つくらいはつける。いつまで続くこの気力。しかしできるときにやらんとあかんのだ。できなくなると私はほんとになにもできなくなってしまうから。

感想付けをするためには、当たり前だが詩を読まねばならない。感想付けくらいなら、該当の詩を読めばぱっぱか書けるが、批評はそうはいかない。批評が難しい詩というのがある。確かにある。たとえばそれは、技巧的なものを感じさせずしかし技巧的なものを読者に気づかせないかたちでしっかりと持っている詩、あるいはものすごくあまりにも技巧的で、言葉と言葉の組み合わせがあまりにも詩的なためその奥深くにあるものを読み取ることが困難な詩、またはひとことで答を出せない重層的なテーマを持ち、しかもその詩のうちでは自らの問いかけに答えず読者を考え込ませるような詩、などであると思う。もちろんそういう詩はあんまり多くない(ので感想の書き手としては助かるのだが、読者としてはあまり楽しくない)。

現在の現代詩フォーラムでそんな「批評の難しい」詩と言えるのは、いとうさんの一部の詩(あくまで一部ですよいとうさん)、川村透さんの詩の八割くらい、それから六崎杏介さんの詩、あたりではないかなあと思う。特に、六崎さん。どこからああいう言葉の接続を思いつくのか。しかし、彼が、自分の手法をはっきり意識しながら書いていることは読んでいてわかる。だからよけいに、あたしゃ六崎さんの詩の批評をぜんぜん書きたくない。書けないともいう。しかし六崎さんの詩に関する批評は読みたいんだな、誰か書いてくれないかなあ。真剣に読みたいんですけれども。

私は批評屋を自称したこともあるけれど、実のところ私には批評の才能があんまりない。私にあるのは紹介の資質である。やたらにたくさん読んで、そのなかからいいなーと思うものを選び、「これいいよー」と叫ぶ資質である。紹介だってそれなりに大事で、PJで発行中のメルマガ「ドルチェ」における司書ささほ(私の通称名つーかあだな)は、基本的に批評屋ではなく紹介屋をやっている。私はインターネット世界で、紹介屋が必要であると思い、また自分にはある程度それをやる才能があると信じた。私も三十半ばになったが、いまだにちっとは自分の才能を信じたりもするのだ。それで紹介屋を一年続けてみたのだけれど、近頃これではまだだめ、私の仕事量は足りないのだと思い始めた。

何が足りないか。

もうものすごく単純なことだ。感想レスが足らんのだ。投稿される詩にすべて感想レスを! なんて物理的に無理に決まっているのだが、とにかく感想レスが必要だ。詩を書いた人は詩に対して何か言ってほしいのだ。そりゃそうだ。私だっていくらかはそうだ。レスがないのもレスの一種、といったら語弊があるかもしれないが、ひとつもレスをもらえないというのは、まさしく確かに一種の批評である。投稿をする以上、その手の批評には耐えなくてはならないし、なにひとつレスがないとしても、誰かがそれを読んでいることはあり得るのだと、そのくらいの覚悟(というほどでもないか、認識くらいにしとこ)はしておかねばならない。意外と人は人の書いたものをちゃんと読んでるものなのだ。もちろん必要事項すら読まない困ったやつもいるけれど、そんなのはわりと少数だ。

私はPJライブラリの詩を全部(間違いなく全部、すべて)を読んでいる。現代詩フォーラムの詩は全部とはいかないが、まあ半分以上は読んでいる。いくらか気にとめている詩人と、新しく登場した人の詩は全部読むことにしている。ポイントを入れずに、しかしその詩を読んだということを、いったいどうやったら作者に知らせることができるのだろうか。フォーラムにおいては、私信ないし感想スレで知らせることができる。しかし私は私信が苦手だ。しかも感想を書いたら酷評になっちまいそうなことがある。それで私は何も書かない。少なくともここフォーラムでは書かない。

感想を書き続けていると「権威になりそうだ」しかし「権威になりたくない」と奥主さんが雑談スレで書いていた。さいとういんこさんもどこかで「権威になりそうでいやだった」と書いていたように思う。私も権威になりたくはない。えらくなるのはごめんだ。重荷はいらん。そんなんめんどくさくていやだ。だけど、誰かは重荷を負わねばならない、私は近頃そう考えている。誰かは、権威の役柄を演じてみせなくてはならない。

詩の世界すべての責任を負うつもりなんて、私には欠片もない。そんなもん誰かが負ってくれと思う。どだい私は無責任なやつなのだ。責任を負うべきだなあと思いつつ負えないからこそ鬱になるのだ。鬱病でしかも血液型Aだぞ、元来は生真面目で小心者なのだ(笑)。しかしとにかく今は元気、この元気さがいつまで続くかわからないが、続いてるあいだは、PJライブラリの責任をこの細っこい情けない肩に負ってみることにした。というとえらそうなのだけれど、実際やることは全部の詩に目を通し、目を通したという証拠にすべての詩に感想を書くという、ただそれだけのことなんだけれども。

感想を書き続けていると、頭が疲れてくる。疲れると、「私は天才かも、一読しただけでこの詩のポイントがつかめて作者の本意がわかるなんて大天才かもっ」という妄想が湧いてくる。これがひどくなって「ネット詩の関係者は私を権威とみなしているのだわっ」とまで妄想が進んだらあまりにもやばいので、自分は天才かもと一瞬でも思えたらその日はもう感想を書かないで休む。

今夜はいまからバイトである。コンビニで品出し接客。頭を別な意味で使うし、くだらない失敗をして落ち込んだりするから気分がかわる。いろんなことをやってみるのがいいんだろうなと思う。私が経験した職種もそろそろ十を超えるのであった。なにやってきたんだろうな、私。



散文(批評随筆小説等) 感想妄想批評妄想 Copyright 佐々宝砂 2004-04-08 03:44:14
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