「きょうも、また・・・」
PULL.


TVを付ければ、
新聞をめくれば、
今日も、また幼児虐待事件。

この種の事件が起こると、
いつも僕は不思議な・・
簡単な言葉では表現のしようがない「感覚」に取り憑かれる。

それは僕自身が、
幼い頃に親などから虐待に等しい行為を受けてきたからかもしれないし・・・
もう一つの理由があるからかもしれない。

最近、頻発して起こる幼児虐待のシチュエーションを、
何度か体験した事があるから・・・・・


正直な気持ちを言うのなら、
「こんな風」に自分の過去を書いて晒すのは、
好きじゃない。

でも、
「何かを書いて伝えたい」
そういう気持ちが、今ここにある。
だから書こう。
(精神的な「マスターベーション」なのかもしれないけれど・・・)


僕は以前、
シングル・マザーと付き合っていた。

それは一人だけじゃない。
10代の頃にも、20代の頃にも、
僕は何人かのシングル・マザーと付き合った。

16の頃、
付き合った恋人は、
2歳の女の子の母親だった。

半年しか付き合えなかったが、
彼女が買い物に行ったり、仕事に出掛けたりする時は、
よく二人で一緒に留守番なんかをした。

もう名前も覚えていないけれど・・
凄くよく泣く子だった。
もしかしたらあの子は、
僕にお母さんを取られまいとして泣いていたのかもしれない・・

本当によく泣かれて大変だったけれど・・・
腹が立った事は一度もなかった。
嘘じゃない。
本当の事だ。

なぜって?。
「子供が泣くのは当たり前。」
僕はそう思っていた。
「偽善」に聞こえる人もいるだろうけれどね・・・

恋人の子供に泣かれて腹が立つぐらいなら、
初めから彼女と付き合ったりしない。

「実は子供がいる」と彼女から告げられたのは、
付き合いが始まってからだったが、
それで彼女への気持ちが変わったりはしなかった。

パートナーの全てを受け入れる覚悟がないのなら、
そもそも最初から相手と付き合うべきじゃない。

さらに正直に語るなら、
そんな不覚悟な人間は「恋人」を作る資格はない。

僕はそう考えていたし、
今もそう考えている。


情けない事を白状すると、
僕は彼女の子の「父親」になれる自信がなかった。
だけど、彼女の子の「同居人」にはなれると思った。

女性は、39週を掛けて「母親」になる。
ならば僕も、39週を掛けて一緒に暮らし、
そして「父親」になれればいい。
そんな風に考えていた。

結局、色々あって、
そうはなれなかったのだけれど・・・


大人が、無抵抗な幼子に向かって、
繰り返し繰り返し暴力を振るう。

その行為を、信じられないという人がいる。
その行為を、人間じゃないという人がいる。

僕は、こう考える。
これ程までに「人間的」な行為が果たしてあるだろうか?。

「性善説」「性悪説」なんて関係ない。
「動物」は「虐待」を行わない。
「虐待」は人間が行う行為だ。

目を背けてはいけない。
拒絶してはいけない。
「敵」を知らなければ、克服は不可能だ。

僕はこれまで、
恋人の子を殴った事はない。
泣かれて怒った事も一度もない。

だからといって、この先。
姉の子である姪や甥に、
絶対に暴力を振るわないという自信はない。

今日、今、
僕の中に姪と甥への「怒り」がないからといって、
明日もそうだとは言い切れない。

俺の中には、
「怒り」と「殺意」がある。
それもとても強大な・・・

だからこそ「彼ら」と話さなければならない。
彼ら「怒り」と「殺意」と話し、
「友人」にならなければならない。

今や「怒り」と「殺意」は、
僕の「良き友人」である。
「良き友人」だらかこそ、
時には「彼ら」と激しい「喧嘩」をし、
時には「親しく」なり「疎遠」になりもする。

「彼ら」は影の様に切り離せない。
僕がこの生を終え、
骨と灰にならない限り、
「彼ら」とは決して別れられない。
死が僕達を分かつまでは永遠に・・・



今日も、また・・・
“そうであったかもしれない僕”が事件を起こしている。
こんな風に感じる俺は、
異常なのだろうか?・・・・



あの時の俺は、
アルコール依存症寸前だったけれど、
子供の前で飲んだ事は一度もなかった。
これは自分の過去の中で、
誇りに思える数少ない行為の一つだ。




11/24/2003 【PULL.】
日記より転載。






散文(批評随筆小説等) 「きょうも、また・・・」 Copyright PULL. 2004-04-06 08:10:45
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