■批評祭参加作品■ 「父さん」櫻井雄一
たりぽん(大理 奔)

 
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   「父さん」櫻井 雄一



空港という場所は時間地図におけるもっとも重要な指標の一つである。時間地図とは簡単に言えば地点間の「測量距離」の地形図ではなく「移動所用時間」を利用した地図で、利用する交通機関で結果が異なるのは当然として、その時系列的な変化も地理学者の研究対象となっている。徒歩、鉄道、船舶、自転車・・・それらの指標によって地図の示す空間は大きく変化し、もし「ある土地への思い」の強さを時間に置き換えることができるなら、それも一つの指標になりうるのではないかと思ったりもする。



 長崎空港は大村湾に浮かぶ世界初の海上空港だ。埋め立てられた箕島はその原型をとどめてはいない。空港へは連絡船もしくは箕島大橋をわたるバス・タクシーを利用するが、私のお薦めは渋滞の無い連絡船。最速の旅の前に船に揺られるのもおつなものだ(といっても、船は高速艇だが) 「父さん」という櫻井雄一の詩は、その長崎空港が舞台である。おそらく「グッバイコーナー」と名付けられた場所。搭乗待合室と送迎スペースを区切るガラスの前。さらに搭乗待合室の窓の外には離陸前のジェットがよく見える。そんな場所だ。この詩では飛行機は主人公が利用する交通機関の一つとして採用されているにすぎない。

 詩、もしくは物語が空港を舞台にするとき、帰ってきた者もしくはこれから旅立つ者(あるいは見送る者・迎える者)のどちらかの視点から描かれることが多いのではないだろうか。しかし「父さん」のなかでは主人公は「僕」でありながらどちらの立場なのかは、どこか曖昧なままだ。それがこの詩の、単なる親子の葛藤ドラマではないステージを用意していると感じさせる。
 
 父親に、おそらくいままでにない優しい言葉をかけられた息子は泣き崩れ、母に抱き起こされる。ということはまだこの親子は搭乗待合室に入る前なのだろう。一歩一歩距離を測るように搭乗待合室で最終案内を聞く「僕」は空の向こう、東京への切実な思いを見つめる。旅立つ者の決意と淋しさが伝わってくる。


 この詩には、ひとつの大きな仕掛けが隠されている。

ここから巣立つ者と
ここに叩き返される者のあいだには
ガラスが一枚と
遠い日の影


 空港では搭乗待合室と到着出口は明確に分けられており、それらがガラス一枚で隔てられている訳ではない。この親子の、おそらくは父親は「叩き返される者」だったのだろう。これから旅立つ「僕」と見送る「父さん」の距離はガラス一枚ではなく「遠い日の影」。だからこそ「僕」はだだっ子のように泣いたのだろう。そして、その父親の優しい言葉こそが切実であるはずの思いを「あるはず」という揺らいだものにしてしまう。涙目の「僕」は「お父さん」という遠い日の影を背負って、羽田行きに乗るのだろう。

 飛行機での移動は、目的地への所要時間においてこれほど早いものはない。東京、という「場」への移動としてこれほど便利なものはないのだ。しかし、それはあくまでも「体」の移動時間にすぎない。時間地図の歪んだ世界においては「心」の移動時間は無視される。「心」の移動時間を指標とした時間地図があったとして、その二つを重ねて見てみたい。そうすれば、この詩の最後に残された不確定な切実さの測るべき距離が見えてくるのではないだろうか。「僕」は飛行機で素早く東京に到着するだろう。そして長崎から東京に「切実な思い」が届くまでの空白の距離を。

「父さん」はそんなことを私に感じさせてくれた。




傷つき疲れ、東京から故郷に帰るときはなるべくゆっくりと帰る方法を選ぶのがいい。早く帰りたいと思っていても、だ。東京に行き、夢を叶えるためにどれほどの距離を飛び越えてきたのかを知るためにも。


(文中敬称略)


散文(批評随筆小説等) ■批評祭参加作品■ 「父さん」櫻井雄一 Copyright たりぽん(大理 奔) 2007-01-06 17:33:27
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