小説の習作 原稿用紙八頁 #04/田中教平
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 室町 礼 
小説の習作ということですが.....今回は
「贈与論」的にこの小説の構造を指摘しておきたいとおもうのです。
贈与は常に返礼の義務を生みます。
ですから書き手の「不幸な出来事」は読者に負債を背負わせます。
読者はその負債を返すために、共感・理解・解釈・批評という形
で応答する。それに比して、
「私は幸せだ。こんなに幸せだ」という語りは読者に何も負債を
負わせない。読者は返礼の回路を持てないので、関係が閉じる。
つまり読まないか、読むのを途中でやめます。
まとめると、
●不幸は「あなたの応答が必要だ」という形で関係を開く。
●幸福は「私は満ちている」という形で関係を閉じる。

ではこの小説はどうかというと「幸福」でも「不幸」でもない。
このテキストは、
●幸福の語りの“過剰”もなく
●不幸の語りの“裂け目”もなく
ただ“中間の停滞”だけが描かれている。
贈与論的に言えば、
幸福の語りのように関係を閉じ、不幸の語りのように関係を開くこともできず、
読者に何も負わせない。だから読者は「受け取るものがない」。

贈与論ではなく倫理的な態度からみれば「主体の責任の回避」が起きている。
この習作は
欠損が裂け目として提示されず
主体が透明化し
出来事が意味の回路に接続されず
幸福でも不幸でもない停滞が続き
主体が責任を引き受けない
という構造のため、
読者に対して“贈与”が発生しない。
だから読者は心を動かされないし、
「幸せならそれでいいのでは」という感想に落ち着く。
- りつ 
- 花野誉 
- ryinx 
 
作者より:

失礼ですが、なるほど。
単純にストイックに文体の洗練や、レトリックの練習をしても駄目という事でしょうか。
不幸として文章中に裂け目を提出する事ですね。
しかし決定的不幸として、病の事を持ち出すのは既に書いてある事の再生産に
なりますし、時々刻々と変わらぬ日々を書いている私小説で
いや、この現代にあってそんな事が可能なのだろうか。
自覚するに妻も私も良心的人間ときている。事件も起こりにくい。
そうすると、この修練を日々続けてゆくのか。
事件性があった日だけピックアップするのか、という事になってくる。
しかし現代詩フォーラムのポイントを下さっている方というのは
ただ幸福である事の健康性みたいなものにイイネしてくれているような
気もする。

隠しているボールとしては、東京時代、僕が病になってしまったドラマを書く
というのがあるが。記憶を掘り起こすのが難しい。18年前の事なので。

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