映画『PERFECT DAYS』──あるいは安全な賭け/中田満帆
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 洗貝新 

予告編をチラッと見ただけで興味は薄れた。
当初からミスキャストだろうと思い、他に演出方法はなかったのか、といえば、まあ、脚本の出来栄えだろうね。
小津映画を称賛する監督には日本人に対する思い入れの強さが逆に働いているようにうかがえる。



- 室町 礼 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- atsuchan69
 評者は、同僚の欠員、姪や妹の登場、酒場での人間関係が平山を変えないことを欠点として挙げる。しかし本作の核心は、「人は必ず変わらねばならない」という物語的強迫から距離を取る点にある。平山は変わらないのではない。すでに変化を物語の中心に据えない地点に立っている。その態度は停滞ではなく、近代的成長譚への明確な不参加表明である。

 また、小道具の扱いが『パリ、テキサス』ほど物語の根幹に関わっていないという指摘も的外れだ。本作におけるカセット、フィルムカメラ、文庫本は、物語を推進する装置ではなく、時間の密度を調整するための道具である。つまりそれらは意味を運ぶ記号ではなく、生活のリズムそのものとして機能している。浅いのではなく、語らせすぎないのである。

 さらに、「実際の清掃労働者が疎外されている」という批判も慎重であるべきだ。本作は公衆便所清掃の現実を社会告発的に描く映画ではない。だからといって、労働を美化し、現実を消去しているわけでもない。むしろ、社会的に不可視化されがちな仕事を、ドラマ化せず、悲惨化もせず、ただ“あるもの”として画面に定着させる。その態度こそが、労働を物語の都合に回収しないという点で、きわめてラディカルである。

 日本財団やデザイナーズ便所の無批判な登場についても、それを「居心地の悪さ」と感じる感覚自体は理解できる。しかし、映画がそれらを告発しないことと、肯定していることは同義ではない。ヴェンダースはここで政治的論評を行っていない。行っているのは、制度や資本の背後にある「場所」を、ひとりの人間の反復的な身体行為を通して捉え直す試みである。

 ラストの役所広司のクローズアップを「顔芸」と切り捨てるのも早計だ。あの表情は感情の爆発ではなく、言語化されない複数の時間が同時に立ち上がる瞬間であり、観客に解釈を委ねるための余白として置かれている。ここでも映画は、何かを「与える」ことを拒否している。

 評者は最後に、かつてのヴェンダース作品にあった「翼」「冒険」「詩」を本作に見出せなかったと述べる。しかし、『パーフェクト・デイズ』にあるのは、翼を失ったあとの歩行であり、冒険を終えたあとの反復であり、詩を叫ばない詩学である。それは確かに地味で、即効性がなく、陰鬱な風のなかで咳き込むような後味を残すだろう。だがそれは「たかが人生以外のなにか」ではない。人生をそのまま引き受けるという、もっとも困難な態度を提示している。

 この映画が観客をどのように変えるかは明示されない。だが、変わらなくてもよい、意味づけなくてもよい、冒険しなくても生きられる、という可能性を示すこと自体が、現代においてはすでに一種の冒険であり、静かな詩なのではないだろうか。



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