以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - りつ
- - 花野誉
- こんばんは。布団の上から失礼致します。
東北の言葉が好きなので、ほっこりしながら読み進めておりましたら、私の名前が出現して、ものすごくびっくり致しました。
石川啄木や寺山修司、飛鳥時代まで遡る壮大なお話の中に置いていただいた上、凄いお褒めの言葉に、身の置きどころが無いくらい恥ずかしいですが、ものすごく嬉しいです。
泥のついたゴロゴロのじゃがいも、光栄であります(*^^*)
---2025/08/14 18:39追記---
- - 田中宏輔
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- - ハァモニィベル
- タイトルにある「極私的」と「偏向」は、奇を衒った逆説ではなく
誠実にそう自覚した上で、自分の好みをちゃんと打ち出していて、
それが伝わりますから、ポイントありに、しようかと思ったのですが、
一点、ちょっと気になった点があるので、あ、すごく惜しいな、という
感想です。
その一点というのは、ご自身で
>泥落として皮剥いできれいに並べてはあ、つまらんことやっとるで
と言っているのに、この作品が、改行されているからです。
もし、改行なしに全て書かれていたら、主張と調和しているので名品とは言えないまでも
好感触のある作品だったのにな、と思いました。
ささやかな点ですが、お説からしたら、大きな点ではないでしょうか。
※
通常誰しも、砂だらけのポテトチップは食べたくないものですが
<オレは違う、オレは、他人が地面に落としてしまった おにぎり でも食べるよ。むしろそれが好きだ>
というのは、極私的で偏向していても、好感を持てるから良いと思います。
ただし、それは、享受する側であるときですね。
自分が差し出す側になったとき、他人にも、泥だらけの おにぎり を差し出して食べろ、と言うのは
どうなんだろう、とそんな素朴な疑問と違和感を、(わたしは、ですが)感じます。
※
古く汚れたコインでも、浜辺の濡れた砂で、強く擦ると、卸したての新品のようにピカピカに戻ります。
古く汚れたコインを人間だとすれば、詩というのは この浜辺の砂(泥)のような働きをするものだ、
と、言えるでしょうね。
だから、敢えて泥を付けなくても、詩そのものが、人の輝きを磨き出す泥なんだと、僕は思う。
(私の「詩の動物園」を読んで頂きありがとう御座いました)
---2025/08/16 19:49追記---
- - 洗貝新
つるつるも泥付きでもいいさ。馬鈴薯は毒芽を取らなきゃ腹を壊すだべよ。
里芋OK。例え方に工夫が足りない。
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