作者より:
森田さん
inkweaverとの別れが急過ぎてしまって
まだ、心の整理がついていませんけれど
しばらくしたら、30年間泣き続けている
ぼくの一番奥の部屋のぼくが、目覚めてしまうのかな
流れで最近は経験否定論者になっていますけど、
経験するしないではなくて
言葉というか生き方というかもっとメリハリつけたいのかな?
メリハリというと嫌いなイメージもあるので
(例えば、男のなかの男(これはユングが使っていた言葉でしたか)
みたいな人たちの使う言葉のメリハリではなくて)
日々、生きていくため「朝だ、よし起きよう」 みたいなメリハリ
どうしても市井的な、巷で聴く、「経験」という言葉は、
ネット詩の世界では、ネット詩内では勘違いしているのではないか。
詩の評論家が経験の大切さ、経験からくる作品への影響をいうのは、
対象となる詩作品や詩人が、偉大な詩人であって「君のでは無い」。
ぼくたち詩人もどきのその他大勢のネット詩人は、その詩作品は、
もっと、「経験」に対しても、謙虚でなければ、先に進めない。
のではと、思うのですね。
「現実、虚構(想像)、どちらが時と場合によって」というより、
世の中の出来事は、ネット内では、全部、虚構船団ではないか、
そもそも、生きているという意味も本来無意味なのではないか
そのあたりの境目で、小さく息をして生きている 感じかなぁ
例えば、それぞれあると思うけど、ぼくは池上で生まれ育っていて
訳あって、とても小さなときから、地元の池上本門寺の和尚からの
影響をうけて育っているけど、宮沢賢治を目指したいわけではなく、
彼が青年のときから、そしてその後も影響を受けた日蓮宗の考えも
宗教経験から宗教を引いた「経験」だけに、ことさら、着目しても
大切なことを見失い、結果、意固地な詩の解釈しかできないと思う。
ぼくは多神論者であるという前提が書いているから、ややこしいか
もっと簡単な言い方をすると、大谷選手の「ファン」ならそれは
それで良いけど、全国の野球少年で、野球選手になりたいならば、
心技体を鍛えるために日々の実践と弛まぬ努力と自分との相談を
通すことにより時間を使ったほうが良いわけで、過去の経験よりも、
今でしょ、未来でしょ、経験は大切だも、だけど、なんぼのものよ と
ネット詩を読んでいると、だからなん?、って作品には スルー かな
ぼく自身がまるっきし、ダメなので、笑うしかないけども、経験値を
普遍化する作業みたいなことに日々を費やして、詩みたいのその少し。
そんなことをぼくの場合は詩集を出すまでは、やっていきたいな と
ぜんぜん上手くいえないのですけどね。ぼくの場合はそんな感じ
---2024/11/10 00:38追記---
アラガイsさん
自分はinkweaverさんの言葉を最後まで「信じる」ことはできなかったかな
記録を消去しただけなので、inkweaverさんがいなくなるわけでは無いので
いつかは、信じられるときが来るのかもしれませんね。