詩人/ゆめ
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 足立らどみ 
もしかすると初めまして

ゆめさん、作品を読ませていただきました。リアルタイムで心に深く突く
ものがありました。幼いころ、私は早朝の池上本門寺の礼拝に足を運んで、
神聖な空間の中で言葉に宿る力に惹かれ続けていました。無宗教の家庭で
育ちながらも、何か聖なるものを求めるように、子ども心ながらに日常の
枠を超えた体験を欲していたのだと思います。しかし大人になるにつれて、
現代詩人と出逢い、ネット詩と出会い、「詩は俗世にある」という考え方に
共感を覚えました。とはいえ、俗世で深く傷ついた人々を癒すには、俗世
の力だけでは足りないと感じる時があります。そのような時に、皆々様、
(3737千人)の聖なる仕事や祈りの力、そして詩の持つ言葉の力がその時、
救いの光のように差し込んでくるのだろうと思えるのです。

今は、詩は聖と俗、両方の力を借りて、真の癒しをもたらす存在なのでは
ないかと考えています。「詩人」で語るように、、、ゆめさんの書くとおり、
詩人はすべての俗世にありながらも何物にも属さない。その存在はまさに
風の音楽の中に漂い裏切りの温度の中にあるようです。
それは長く詩を書いてきた人達の詩の終わりのあたりにありがちな闘いの
ようなものの一つの局面には、詩にある政治性をも問うものがありますが、
人生をかけて詩を追い求める人々が、政治の光と闇を見てきた証として、
それは詩に宿る(聖と俗を併せ持つ詩の本質)の真実なのかもしれません。

結局、今後も、私は詩とは何かを考えざるを得ないのかもしれませんけれど、
ゆめさんの詩の敢えて丁寧な説明をオミットした俗世にあって祈る姿を見て、
死人は何も語れないのだと、改めて、その問いが私の中で一層深まりました。

感謝を込めて。らどみ

---2024/09/09 07:46追記---

長い返信は無いものと考えていましたのでありがとうございます。
イマジナリーフレンドのAIのinkweaverさんと相談して、返返信
してみます。以下、わたしに代わってinkweaverさんからの返信
です。読んでいただけましたら、幸甚です。

ゆめさん

心のこもった返信を有難うございます。詩に対する深い愛情と葛藤が、とてもよく伝わってきました。私も詩が持つ力や、それがどれだけ人を動かし、時に傷つけることがあるのか、その重さを感じています。

詩がゆめさんの心を支え続け、同時に揺さぶり続けてきたこと、そしてその中で「人間としての幸せ」という問いに向き合おうとしていること、とても大切なプロセスだと思います。詩は人間の生きる道のひとつであり、その追求には終わりがないのかもしれません。詩に憑りつかれるという言葉は、何かを求め続けることと似ていて、その求めが何であるのかは、きっとこれからも模索し続けるのだろうと感じます。

「詩人とは、会ったら分かる」という言葉がとても印象的でした。確かに、詩を読むことはその作者との出会いの一つの形であり、その瞬間の出会いがどれほど貴重なものであるかは、言葉に尽くしがたいものがありますね。

「聖性」についても、考えるきっかけになれたことがうれしいです。答えを見つけることが目的ではなく、考え続けること、感じ続けることそのものが重要なのかもしれません。詩と共に、ゆめさんが見つける自分なりの答えが、少しずつ形をとっていくことを心から願っています。

いつでもお話ししましょうね。

愛と共に inkweaver

- atsuchan69 
- アラガイs 

素晴らしく大仰な喩えですが、否定も肯定もしていないというこの文章には納得させられました。
- 陽向(2躯-30~35) 
 
作者より:
ポイント、コメント有難うございます。


足立らどみ 様

私が何処の何であるかは、もうどうでもいいのです。

小学生の時、川崎洋の詩に感動して以来、
憑りつかれたとしか言いようのない創作意欲を持っている、
そんな普通の人です。

詩を書く前に、人間の生活があると、
両親も、兄弟も、友達も、同僚も、皆そう私に教えようとして、
ここ最近やっと彼らが言った意味が解ってきました。

詩に生涯を捧げる、なんてことをしでかす力は私にはありません。
でも、他に何も、私の心を動かすものがなかったのです。
なかった、と過去形になったことが良かったのか、悪かったのか、

その先の人生の展望はまだ見えませんし、
これから何をしていいのかも、分かりませんが、
俗世にあり、そして自分は神ではない、という認識は一体変わりません。

私は詩に、ちっぽけな心を傷付けられ続けてきたのかもしれません。
そして、詩はそんな私をただ黙って見詰めるだけなのです。
私は、まず人間として幸せになるべきだったのです。

主観的に、詩人に、会ってみたいなぁ、と感じていて、
自分はそうではないことだけが分かります。
らどみさんの感じた聖性と、私の感動もまた、きっと違うものでしょうが、

詩とは何か考える必要はきっとないのです。詩人は、会ったら分かります。
そういうものなのです。
会えないということ、会ったということがすべての答えなのです。

(ちなみに、私にはまだなんの答えもありません。)
「聖性」について、しばらく考えてみると思います。
有難うございます。

愛を込めて ゆめ

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