永遠は/由比良 倖
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 由木名緒美 
三作ぜんぶ見ました。
- アラガイs 

上記二作を含めてこの三作品は関連があるのですね。つまり三部作だ。そのように感じて読めます。
 
作者より:
>由木名緒美さん

今回投稿した三作は、今までとは少し毛色が違うような気がしています。
僕にあるのは逃避願望だけじゃないな、と思い始めています。
(また今日は「逃げたい」なんて思っているのですが。)
読んで頂けて嬉しいです。

>アラガイsさん

ありがとうございます。僕も読み返してみて気付いたのですが、
今回の三作には、三部作と言ってもいいような、何か共通の視点があるような気がします。

何と言うのか、説明は難しくて、堅苦しい言葉でしか、今は言えないのですが、
誕生前と生と死、そして現在は既にあって、動かせようのないことなのに(そしてそこにはきっと安息があるのに)、
それならなぜわざわざ、(多くの場合苦しい)意識があって、僕がいて、生きているのだろう?、とよく考えます。
ただ認識し、認識されるために、生きている気がします。
また同時に認識し合い、認識され合うために。
出来れば、出来るだけ深く認識……というか受け入れ、受け入れ合えたらいいな、と思っています。
やっぱりうまく言えないのですが。
この生がひたすら苦しいもので、逃避した先が「安息」ならば、
「消えたい」と、逃避だけを理想化することも出来るのですが、
やっぱりそれだけじゃなくて、意識と言語は、今この瞬間を生きている僕にとって、
とても大切なものなんだ、と思い始めています。それから、想像することと。
(逃避した(消失した)先に)「真理(?)」や「安息」や「絶対的な幸せ」があるとして、
(キリスト教徒ではありませんが、「天国」は経験的に信じています)、
それだけでは、どうしても足りない、と僕は感じます。
お互いを、物と人でも、人同士でも、認識し合い、受け入れ合うために、
どうしても意識や言語が必要だったのではないか、
と、これは何ら論理的な思考から来た訳ではないのですが、そう感じます。
そこに、意味があるとは思いません。ただ、そうなっている、と思うのです。
それ(認識し合うこと)こそが現実であり、真理(と言ってもまだよく分かりませんが)だけでは、
多分、現実は存在しない/出来ないのだと思います。

簡単に言うと、今まで無関心に近かった、人や物に、もっと強く、深く、そして地道に関わり合いたくなりました。
そういう気持ちは、この三作には通底しているのではないかと思います。
「人生は暇つぶしだ」とか「どうせ死んで消えるのだから、生きてる間はただ楽しく」という言葉は、
どうも違うと思います。とても違和感を感じます。
生きて、意識があって、今があって、言葉があることには、大きな意味があって、
そして生きている僕にとって、結局出来ることは、意識的に生きて、よく物や人を見て、感じて、深く関わり合って、
そしてあとは、言葉をせっせと書くことだけなのではないか、と今この時点では思います。
生きていれば、書くだけではない、例えば音楽とか、まあボランティアとかでもいいんですが、
もうちょっと何か出来そうだ、と思います。そんなことを、考えたことも無かったのですが。
それにもちろん、書きたいことをもっともっと一生懸命に、一途に書くことも出来ます。

今までは「苦しい自分」と「逃避したい」が主なテーマだった気がします。
なのに、ここ数日、僕としたことが、本当に勉強しよう、とか、書くならもっといいものを、と、
真面目に考え始めています。良い意味で大人になりたい、とか。

と言いつつも、この三作の次に書いた三作はまた、孤独や変われなさや、
自己の喪失についてばかり書いているのですが。
いろいろ、行ったり来たりしながらも、書き続けていれば、きっと、
何処かに、多分、とても静かで、シンプルで、自分のやるべきことだけをせっせとしていればそれでいい場所に行けて、
つまり、多分、地道な実践だけが残るのだと思います。
実践とは、ほぼコミュニケーションと言い換えてもいいと思います。
それも表面的な会話(も大事ですが)だけじゃなく、物や人との深い交流です。
深い交流があるとすれば、それはとても地道なことだ、と想像しています。
まだ、そこまでは全然行けていないので、朧気な想像でしかないのですが……。

ともかく、書いていて、自分の意固地な考えや、どうしようもなさから、ふと解放されるような、
ふと違った見方/考え方が、浮かんでくるような瞬間が、とても好きです。

でも、ただ現世……生活に一途、というのも、苦しいので、
たまには天国に行きたいです。帰ってこられることを前提にして。

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