インターネットを捨てよGoogleに投石せよ町へ出よう山を歩き海と語れ/オダカズヒコ
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- あおば 
- ただのみきや 
- もり 
- そらの珊瑚 
寺山修司の時代の「書」が現代のインターネットなら、未来にはまたそれに代わるものが現れるのではないかとも思ってます。
- 夏美かをる 
あかちゃんにもスマホを与えてしまっている母親を見ると、同じことを言いたくなります。そう、私の青春時代は勿論インターネットもスマホもなかったけど、全く問題なかった。テクノロジーの発達は依存を産み、依存とはある意味”弱さ”だと思います。よくぞ、言って下さいました。
- ガト 
- るるりら 
おっしゃることは、もっともですが
でも ネットに接続しなかったら
この文も 読んでないです。
---2015/08/24 07:32追記---
»ほんとですよね。全く。
インターネットがなきゃ書く必要もなかったコトガラです。

そのような意味ではなく、わたしも ネットに依存気味の方には
インターネットを捨てるべきと 思うのですが、でも
もしも インターネットを人々が捨ててしまえば、あなたの詩作品全般も人々が読むことがなくなるという意味のつもりでした。

尚、別のスレットに このスレットに書くべきことを書いてしまってたので、削除しました。すみません。ではでは
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 深水遊脚
情報の海に溺れそうになったらとりあえず浜辺に上がるのがよいでしょう。でも、浜辺に上がった人がもし、私が適応できなかった海は虚妄であると吹聴するなら、その人は残念ながら、進化に取り残された悲しい嘘つきです。真実の在りかは、そう簡単に示せるものではないし、そもそもあるかどうかさえ人により考えが違います。

まあ、少し器用に海を泳げたくらいで海の全てを語る憎むべき嘘つきは私も大嫌いです。
---2015/08/16 19:27追記---


付け加えるなら浜辺に上がる人を侮辱する人も大嫌いです。

---2015/08/21 23:32追記---



寺山修司にとっての「書」と「町」がそれぞれどういった性質のものか、この詩をきっかけに、いまいろいろ考えています。きっかけをくれたこの作品に私は感謝すべきかもしれません。でも、好きにはなれません。なお、個人的な好き嫌いであり批判とはまた違うような気もします。嫌いなものは嫌いと伝えることも必要であると考えています。

この詩を好きになれない理由、そしてそれをわざわざお伝えした理由について考えてみました。おそらくタイトルの元になっているであろう寺山修司の作品にも久しぶりに当たってみています。私がこの尾田さまの作品にもつ嫌悪感は、語り得ないもの、知らないものについて知ろうとせずに愚弄する点にあるように思います。ネットを不要とする根拠は自らの経験のみであり、その経験も他者が登場しない自分の生活のみです。俺様に必要なかったものはおまえたちにも必要ない、とでも言うような、他者を知ろうとしない、また他者が発信するメッセージは溢れているのにそれに触れようとしないこの思考は、「町」に身を晒して偶然性に委ねようとした寺山修司のあり方の対極にある、きわめて保守的な考え方であるように感じました。ネット上の情報とそ発信し受信する人間をみず、その情報が自分にとって過剰である、有用でない、などの理由から、簡単に「虚妄」と断定している点も。

浜辺はネット回線を繋いでいない状態、海は繋いでいる状態を喩えました。作品とリンクしない比喩だったので分かりにくかったですね。「虚妄」という言葉から、ひとつの真実の存在を前提にしていたのかと思いましたが誤解だったようですね。
---2015/08/24 08:59追記---

>むろん、言うまでもないことです。ぼくと寺山の志向とは対極にあります。

なるほど。寺山とは対極ですか。そうするとタイトルは単なるインパクト狙いで寺山とは無関係ですね。流通している言葉を雰囲気で散りばめたと。

>インターネットという媒体は、これまでのメディアと比較すると、編集者も
>検閲も存在しないある意味「無法」の状態です。
>そこへ社会的判断力の欠如した人間が接続した場合、どんな結果を生むのか、
>火を見るよりも明らかです。

これまでのメディアと比較してならばそうでしょう。安全に管理された領域では身に付く判断力も限られます。好むと好まざるとに関わらずインターネットは存在します。判断力を欠く人も接続してきますが、優れた判断力、知性、美的感性をもつ人もまた接続してきます。そうしたなか自分自身の判断力、知性、美的感性もまた吟味されます。そのような自分も含めた参加者により、それぞれの自由が保たれながらもより良い状態に向かっていると私は見ています。

>火を見るよりも明らか

以心伝心をよしとする保守的な方ならではのお言葉ですが、以上の理由から私の考えは違います。また竜野息吹さんのコメントからも、インターネットが却って人の生命、安全を守るようにも発展してきているのが伺えます。法も及びます。なお、海や山はインターネットなき世界の理想として詩に示されたものです。竜野さんにはもう少し丁寧に答えたほうがよいと思うのですが……あ、以心伝心ですね。余計なことを申しました。ともかく、いま詩を書くならそのような複雑性からスタートしないと、どうしても嘘っぽくなるように思います。


>それから、大前提としてぼくは論文を書いたつもりもないし、
>ましてやスローガンでもない。ここに書いたのはフィクション。
>フィクション(ポエム)の提示を行っただけです。
>なので、あえ極端な表現にもなっています。
>そんなこと一々言わんでもわかると思うのですが、というのがぼくの立場です。

最初のコメントでうまく伝わらず、散文的なコメントで言葉を尽くすのが礼儀かと思い、二度に渡り駄文を重ねました。詩も散文も下手であることは自覚しております。失礼いたしました。
---2015/08/24 09:01追記---
- りゅうのあくび
海と語るために、船に乗るとしても
山に登るために、靴を履くにしても
今の時代では、インターネットにまつわる技術によって
命の安全でさえ守られています。
昔でいえばコンパスにあたるものが
GPS(地理測位技術)であったりします。
そのような技術でさえ捨てても旅に出るのは
暴挙でしょう。
必要な情報についての考えということがなされていない
メッセージとお見受けします。
この詩を見て思うのは、
戦争中にアメリカ兵へ民間人に竹やりで
戦おうさせた記録映画を
みているような感覚です。

ネットを捨てるために、山や海へと旅をするというのは
間違った関係付けと思います。
山や海を純粋に好きになることが、
何よりなんではないでしょうか。
その辺は、あまり触れてはいないようですね。
 
作者より:
あおばさん、どうもありがとう。
---2015/08/15 21:50追記---
ただのみきやさん、どうもありがとう。
---2015/08/19 18:15追記---
◆山川もりいさん、どうもありがとう。

◆そらの珊瑚さん 
>寺山修司の時代の「書」が現代のインターネットなら、
>未来にはまたそれに代わるものが現れるのではないかとも思ってます。


「書」とインターネットは本質的に別物のような気がします。

◆夏美かをるさん
>あかちゃんにもスマホを与えてしまっている母親を見ると、
>同じことを言いたくなります。
>そう、私の青春時代は勿論インターネットもスマホもなかったけど、
>全く問題なかった。テクノロジーの発達は依存を産み、
>依存とはある意味”弱さ”だと思います。
>よくぞ、言って下さいました。


かをるさん、ぼくの青春時代には、すでにインターネットはありました。(*´▽`*)/

◆ガトさん、どうもありがとう

◆るるりらさん、
ほんとですよね。全く。
インターネットがなきゃ書く必要もなかったコトガラです。

◆深水遊脚さん

>情報の海に溺れそうになったらとりあえず浜辺に上がるのがよいでしょう。
>でも、浜辺に上がった人がもし、
>私が適応できなかった海は虚妄であると吹聴するなら、
>その人は残念ながら、進化に取り残された悲しい嘘つきです。
>真実の在りかは、そう簡単に示せるものではないし、
>そもそもあるかどうかさえ人により考えが違います。

>まあ、少し器用に海を泳げたくらいで海の全てを語る憎むべき嘘つきは私も大嫌いです。

---2015/08/16 19:27追記---

>付け加えるなら浜辺に上がる人を侮辱する人も大嫌いです。


深水さんの云う、「浜辺」とは何なのか、ずっと考えていたのですが、
よくわかりませんでした。「真実」は、一つではない。これは当然
です。
「嘘つき」が嫌われるのは反社会的であった時で、嘘も方便という場合
もあります。
結局、ぼくは深水さんにこの「作品」を批判されているんだと思うんで
すが、その理由が、今一つよく伝わってこないのが少し気になります。

---2015/08/23 18:53追記-

>この詩を好きになれない理由、
>そしてそれをわざわざお伝えした理由について考えてみました。
>おそらくタイトルの元になっているであろう寺山修司の作品にも
>久しぶりに当たってみています。私がこの尾田さまの作品にもつ嫌悪感は、
>語り得ないもの、知らないものについて知ろうとせずに
>愚弄する点にあるように思います。
>ネットを不要とする根拠は自らの経験のみであり、
>その経験も他者が登場しない自分の生活のみです。
>俺様に必要なかったものはおまえたちにも必要ない、
>とでも言うような、他者を知ろうとしない、
>また他者が発信するメッセージは溢れているのにそれに触れようとしない
>この思考は、寺山修司のあり方の対極にある


むろん、言うまでもないことです。ぼくと寺山の志向とは対極にあります。

>きわめて保守的な考え方であるように感じました。


そうです。ぼくは保守派です。

>ネット上の情報とそれを発信し受信する人間をみず、
>その情報が自分にとって過剰である、有用でない、などの理由から、
>簡単に「虚妄」と断定している点も。


インターネットという媒体は、これまでのメディアと比較すると、編集者も
検閲も存在しないある意味「無法」の状態です。
そこへ社会的判断力の欠如した人間が接続した場合、どんな結果を生むのか、
火を見るよりも明らかです。


>浜辺はネット回線を繋いでいない状態、
>海は繋いでいる状態を喩えました。
>作品とリンクしない比喩だったので分かりにくかったですね。
>「虚妄」という言葉から、
>ひとつの真実の存在を前提にしていたのかと思いましたが誤解だったようですね。


それから、大前提としてぼくは論文を書いたつもりもないし、
ましてやスローガンでもない。ここに書いたのはフィクション。
フィクション(ポエム)の提示を行っただけです。
なので、あえ極端な表現にもなっています。
そんなこと一々言わんでもわかると思うのですが、というのがぼくの立場です。

◆竜野息吹海さん

>今の時代では、インターネットにまつわる技術によって
>命の安全でさえ守られています。
>昔でいえばコンパスにあたるものが
>GPS(地理測位技術)であったりします。
>そのような技術でさえ捨てても旅に出るのは
>暴挙でしょう。
>必要な情報についての考えということがなされていない
>メッセージとお見受けします。
>この詩を見て思うのは、
>戦争中にアメリカ兵へ民間人に竹やりで
>戦おうさせた記録映画を
>みているような感覚です。


竹やりとインターネット・・。
全くピンとこない話ですがご高説どうもありがとうございます。

>ネットを捨てるために、山や海へと旅をするというのは
>間違った関係付けと思います。
>山や海を純粋に好きになることが、
>何よりなんではないでしょうか。
>その辺は、あまり触れてはいないようですね


一切、触れていませんね。(-。-)y-゜゜゜
 

---2015/08/23 19:25追記---

---2015/08/23 19:26追記---

---2015/08/23 20:59追記---


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