田村隆一論——フィクションの危険/葉leaf
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- アラガイs 
- 岡部淳太郎 
- ……とある蛙 
- N.K. 
言語行為論に思いを巡らせながら、読みました。田村隆一の詩につ
いていろいろな評価があるようですが、この論からは、illocutionary
actsやperlocutionary actsが,混在するフィクション(創造性)
とノンフィクション(信用性)両方のレベルで生起するところが、
その特徴であり、豊かさが存するところかと感じました。あるい
は、創造性と信用性の緊張が、田村隆一の詩を詩たらしめるように
思えました。今回も大変勉強になりました。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- るか
補足になるかどうか分かりませんが、田村隆一らの知的環境というのはヘーゲル主義でありカトリシズムでありマルクス主義であった訳でしょう。時代的には戦争の経験がありましたね。そういう環境のなかにおいて作品を視てみると、開けてくる意味があるのではないかと思いますね。「四千の日と夜」にしたって、論理的な骨格としては、難解でも何でもないと思うんです。単純素朴な対立物の統一という思想ですから。しかしそれが共感を持って受容されるのはやはり、そのような対立と統一という過程が、戦場や社会生活のありかたのなかで、読者にも不明瞭ではあっても、ある種、経験されているからではないかと考えますねえ。
「実感」とか「真実」とか「信用性」そのものについての考察こそ期待させていただきたいと思います。なぜ詩人の実感に耳を傾けなくてはいけなくて、詩人の真実にはどんな意義があって、詩人を信用するというのは具体的にどんな意義を持つのでしょうか。そういう疑問を、常日頃有しておるんですね。ともあれ、長文ご苦労様でした。
 
作者より:
あ、この評論は田村の詩の時代背景などには焦点を当てていません。そういうものについては別稿で書こうと思っています。この論で私が論じたかったのは、別に田村特有の問題ではなく、だけれど田村には特に見てとりやすい問題です。それがフィクションの問題です。本論の末尾において、詩の信用性などを重視することに対する懐疑を示しています。いわばそちらの方に私の本懐があります。この論の初めに提示した問題意識は、非常に素朴で、詩など良く分からない人が抱きそうな問題意識です。そのような問題意識で読み解いていっても、結局は田村を批判することはできないということです。それよりも、フィクションをフィクションのまま享受することの方がよいのではないか、というのが末尾における主張です。
---2011/12/07 02:56追記---
>N.K.さん
>信用性と創造性の緊張

それをまさに言いたかったのです。ありがとうございます。
---2011/12/14 16:14追記---
初出 kader0d vol.5

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