人が自由を奪われるってのはね、生きていても生きている感じがしないとかそういう体験の恐怖なんだと思う。/石川和広
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ふるる 
「人間しっかり生きなきゃいけない教」のことを、私は「強者の理論」だと思っています。つまり、どんな性別にしろジェンダーにしろ、強者という思い込みが存在し(お金持ちだったり、情報持ちだったり、多数派だったり)彼らはなんか無意識に自分は偉いと思い込んで、弱者の人権や自由を奪いがち。弱者はさらにまた弱者の人権や自由を奪いがち。
強者(というものが存在すると思い込んでいる人)はやりたい人がやっていればいいと思うけど、それをかさにきて何かを奪われるのは、生きている感じを味わえなくなるのは、嫌ですね。とか、そんなキャラじゃないのに、強者=幸せ者と思い込み、必死に強者になろうとして頑張り過ぎて、自分で自分の首をしめちゃうとか、苦しいですね。
・・・とは言え、こういう私の意見こそ、弱者(という人がいるとして)のことを全く分かっていない勝手な言葉なのかもしれませんが。
---2009/04/09 15:01追記---
石川さん、お返事をありがとうございます。ちょっと単純に切りすぎてしまいました。分かります。人は生きていて、どろどろもしているから、そのことがからむことを善悪とか、正否とか、論理的に言うってできない。言おうとすれば、何かを切ってしまったり、難しいです。石川さんの文章は、そういうことに対して誠実であろうとする姿勢をすごく感じます。

---2009/04/09 15:06追記---

ソティロさまへ(私もいいのかな、書いてしまって。石川さんすみません)
ありがとうございます。なんか、自分にしてはスパスパ切っちゃったなあと思っていたので、ありがたいです。そうですね、「持ってよかった」というのは当然あると思いますし・・・自由に幸せを追求できたらいいね、というようなことを言うつもりだったのですが、でも、幸せを追求することが、他の人の迷惑にもなるってこともあり得るわけで、強者弱者と言っても、本当の力関係的には、個人個人ではどうなのよ、という視点も欠けていました・・・。
- ソティロ 
あーばっちりきました。
今、これから必要なものってまさにそれなんじゃないかと思ってます。
そんで
「人間しっかり生きなきゃいけない教」
にめっちゃ反応しました。
このことば便利ですね。使っちゃいそうです。
石川さんはお花畑って言ったし、そう思われがちなのもわかるけれど
ぼくはそこにある種の合理を感じています。

---2009/04/09 15:02追記---
ふるるさん
横からすいません。(こんな使い方してええんかな/石川さんもすいません)
この情報が巡る社会で、「持つ者が必ずしも幸せとは限らない」というコンセンサスってあると思うんです。金持ちでも誰もほんとには愛してくれんケース、みたいなのは想像に易い。
でも「持たざる者は不幸」の方は結構力が強く、色んな媒体がそれを煽ってる気がします。持ってなくてハッピーっていう図は比較的浮かびにくい風潮があるような。
金持ち(強者)=幸福は常に成り立たないけど、貧乏(弱者)=不幸は常に成り立つ、みたいな。
ぼくが(ぼくの圏内で)その雰囲気に過敏なだけかもしれんけど。
それでそっから(その不安から)逃げるために、一生懸命「持とう」とする。
持って良かった、ってアナウンスする。勝ち組負け組強者の論理ってこんな風に出来てる気がするんです。
- 岡部淳太郎 
- 北村 守通 
- 唐草フウ 
 
作者より:
ふるるさん、ありがとうございます。いや、ネットでも新聞でもそうですが、あるいはファシズムもそうなんだけど、豊かな層がやっているというのもあるけど、実は多くのつよくならねばならぬ教は、多くの苦しんでいる人を煽りまきこんでいっているように思います。

たぶんそれは、実は僕も人間は勇気があるのはかっこいいと思っています。
でも、多くの人がいう強さは「どんなことがあっても、負けてはならない。最後の一兵まで戦う」式のまるで軍隊式の論理に似ています。しかしマスコミだって憎悪を煽ったって責任なんてとりません。みんなしんどいばかりです。

その強くあるべきみたいな規範に従ってやせ我慢し続けるのは自殺行為です。僕も今でもそういう部分はありますよ。頭いい方が勝つとかそんなことマダ思い込んでいる。

もちろん誰しも譲れないものはあります。それどころか自分はきちんとやっていると、素敵だと思いたい。それはごくふつうなことです。しかしその自尊心というか、自他への肯定感情を破壊されたりする中で生きてきた人が頑なになりやすいのだと思います。だからその破壊されたり、嫉妬や攻撃を煽る社会や、その環境自体にも相当問題があると思います。人間も生き物ですから、ふるるさんも昔言っていたように攻撃性があります。攻撃性をあおられずに自分の生活を続けていく。しかるべき場面でフェアに向けることがない場合それは混沌になるんだと思う。
いやもう俺も言いたい放題なんですけど、根源的な意味での攻撃性は、実は芸術や宗教や社会活動全般の構成要素のひとつではあると思っています。ふるるさん、コメントありがとう。助かりました。

重ねて言いますが、自尊感情とか、自分は生きているとか、そういうのはあるのがしぜんです。それが他者に対する脅威になる危険性はいつでもあるのです。

---2009/04/09 16:22追記---

ソティロさん、ありがとうございます。そうなんです。同感です。なんかこっちの水は甘いぞみたいな話になっていますよね。で、結果それぞれがどういうふうに生きているかということが見えなくなってしまうわけです。

ふるるさん追記ありがとう!いや、ふるるさんは決断力があると思っています。僕は大胆さがないので、ぐずぐずになってもいます。

それとふるるさん、ソティロさんのお話全然かまいません。むしろこの散文を書いてお二人が意見してくれたことが僕にもとっても参考になっています。お二人ともありがとうございました。

これは追記ですが
うちの家族で、父も母もどっちも何だかなあと思うときもあります。例えば喧嘩していたら、オヤジいいすぎ!とオカンも言いすぎって思うときがあって…
ただ俺もええ年した人間なので、だからどっちもどっちという感じよりは自分は男として育ってきたけど、女の人だけでなく他人と共に生きるって難しいなあって思います。大体俺は自分が一番偉いと思う自己中なので、だからすぐ自分の思うとおりにいかないとこでイライラします。

恋愛、俺の場合異性が恋愛対象になりがちですが、なかなか難しいもの、苦労します。でも、相手から見たらきっと僕のことを始末に終えないなあと思っている部分もあると思いますが。それはみえないんです。
いやわかっていても、意地になるんです。それは人間であれば同じです。ただ、背負ってきた役割やなんかあるいは自己形成の仕方がちがうので、カチンと来るときもあるわけです。俺はどうしてもそういうとき男目線なんだなあと思います。

---2009/04/09 16:43追記---

岡部淳太郎さん
北村守通さん
三枝フウさん
ありがとうございます。
---2009/04/10 08:03追記---


訂正履歴:
最終連、追記しました。09-4-9 14:25

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