詩のふもとへ問いを発する前夜に/白井明大
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 寺岡純広 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 深水遊脚
経済については特に言えることですが、それについて何かを言ったとしても状況がすぐに変わってしまう。数日前のニュースやコラムが陳腐化してしまう。そんな状況です。そこで言葉を重ねることに意味を見出だせるのか? 陳腐化する膨大な経済新聞のコラムと同程度のことを書いて使い捨てられるか、厭世的な愚痴を垂れ流すか、同情を買うような言葉で政治的な誰かの片棒を担ぐか、支離滅裂なことを書いて「はい、これが混沌です」と切り売りするか。以上のどれかであるなら、私はそれらより沈黙のほうを好みます。わかってないのに、できもしないくせに、無理して詩作、発言してもらう必要はないと考えています。

以上はあくまで、世間の関心と無理に連動して何かを書く必要はない、という文意で捉えていただけたら幸いです。実際、世間の動揺と詩人の関心が連動しないことは、むしろ普通であるように思います。例外は多々あるのですが。


(携帯より追記)
プロフィールの文章、読んでいただいてありがとうございます。対話相手の思考を丁寧に確かめるその姿勢、大いに見習うところがあります。清々しい気分になれました。かつて私はもう少し希望を持っていたことにも気付けました。感謝します。
 
作者より:
かのっぴさん
そうですね。無理に連動して何かを書く必要はないだろうと思います。

ただ、世間の動揺と詩人の関心が連動するかどうかは、世間の動揺がどのようなものであるかによるかもしれません。

かのっぴさんがおっしゃっている「経済学の教科書ほどに市場の価格形成は完璧ではないから、多くの場合、評価は間違う。そんなとき、フェアな評価を自分にも、他人にもできるには何が必要か。案外、人文系の学問がいまは重要なのかもしれない。」ということには深くうなずけます。

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