クリスチャンが競争を引き起こす比較を避ける理由/生田 稔
 
ポイントはありません。
 
作者より:
kemuri様へ 聖書には次のとおりあります。

2 あなた方にゆだねられた神の[羊の]群れを牧しなさい。強いられてではなく,自ら進んで[行ない],不正な利得を愛する気持ちからではなく,真剣な態度で[牧しなさい]。3 また神の相続財産である人々に対して威張る者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい。4 そうすれば,主要な牧者が現わされた時,あなた方はあせることのない栄光の冠を受けるでしょう。〔ペテロ第一5の2〜4)
25 もし霊によって生きているのであれば,また霊によって整然と歩んでゆきましょう。26 自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう。(ガラテア5の25・26)
24 競走の走者はみな走りはしますが,ただ一人だけが賞を受けることを,あなた方は知らないのですか。あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい。25 また,競技に参加する人は皆,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の[冠のため]です。(コリント第一9の24・25)以上の聖句からもわかるように,競争は朽ちない冠、不滅の命のためです。

Michrow 様へ 私の文章にご質問有難うございます。全キリスト教は聖書の記述に関心をもっと持つべきと思います。聖書には、「義人なし、一人だになし」とも書かれていますし、聖書はキリスト教の従うべき法典なのです。しか例えばばキリスト教に限らず、どの宗教どの国、どの個人も法律や道徳にしたがうひとはすくないですね。もし義人という言葉を完全な人と捉えるなら、誰もいないことになります。善と悪は相対的と考えるのが、正しいことではないでしょうか。「義に過ぎてはならない、悪に過ぎてもならない」とも聖書は教えています。失礼しました・・・

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