最初に気づいたのは語りを知らない子どもだった。

空に向かって「今、呼ばれた」と言ったのだ。

その夜から村では同じ言葉が漏れ始める。

「呼ばれた気がした。」と。

囲炉裏で誰かが口 ....
あの村では丘の話をする時、必ず声を落とす。

囲炉裏の火が安定した頃、誰かが言う。

「昔、風が妙に長く吹いた年があった。」

名は出ない。

鬼の名も、娘の名も。

ただ「越えた ....
風は、もう吹いていなかった。

丘には草の音だけがあり、
見た目には何ひとつ変わっていない。

吉だったものは両手を見つめていた。

何かを掴んだ記憶はあるが、思い出せない。

熱だ ....
最初に動いたのは空気だった。

丘の反対側、
澄乃は口を開く準備だけをして、
立ち止まっていた。

風が来る。

春一番ではないが、
沈黙を正当化するには
強すぎる風だった。

 ....
名を呼ばれなくなったというより、
名が役に立たなくなった。

丘を下り、また登る。

その途中で誰かとすれ違った。

顔は見えないが、その影は
吉と同じ歩幅で反対方向へ進んでいった。
 ....
丘は、いつ行っても同じ形をしていた。

草の匂い、風の向き、空の低さ。

吉は越えたはずなのに、
気づけばまたここに立っていた。

戻ったのではない。

同じ地点を、違う時間で
踏 ....
鬼と呼ばれる前、
吉は境を知らなかった。

山と村の間に引かれた線は、
土にも風にも刻まれていない。

それでも夜になると、
体の奥がざわついた。

行ってはいけないと
教えられた ....
人々が夜空の星を拝んでいる頃。

山奥の誰も立ち入らぬ湿地で、
三郎の体は
静かに泥へと溶け込んでいった。

星は高く、人々が空を見上げて
感謝を捧げるたび、三郎の生身の真実は、
より ....
ずっと後の時代。
ひとりの子が、渚でその小さな石を拾い上げた。

石は少しも光らなかったが、
子は生涯その石を掌から手放さなかった。

誰かを救えなかった夜、
石は掌の中で同じ分だけの重 ....
山の方から重厚な声が落ちてきた。

「河童三郎の命と引き換えに、この地を護ろう。」

雲が裂け、夕暮れの空に
濡れたような一つ星が灯った。

沼は沈むことなく守られ、
ダムの計画は ....
三郎が岩場に膝を折ると、
重い声が滝飛沫に混じって降ってきた。

「命を差し出す覚悟はあるか。
その命は、もはや
元の場所へは決して還らぬぞ。」

龍神の声が止むと、
滝の音だけが一層 ....
雨上がりの湿った夜、
三郎は村長の枕元に音もなく立った。

三郎が去った後、
座敷に残されていたのは、
一枚の古びた血判状であった。

「おらの命ば龍神に捧げる。したから、三郎沼わ沈めね ....
三郎は、屏風山の入り江に住む老いた青蛇を訪ねた。

「どうすれば、誰も泣かせずに済む道が見つかるべか。」

かつて龍になることを拒んだ蛇は答えず、ただ長い体をくねらせ、
細かな波の立つ水面の ....
「家も、三郎沼も、すべて水の底に沈むんだのぅ。」
爺さまの呟きは、囲炉裏の爆ぜる音に吸い込まれた。

夜ごと水音を変えるぬらくら川の不機嫌を測りながら、
村人たちは息を潜めて暮らしていた。
 ....
海には、潮の満ち引きさえ届かぬ深い場所がある。

そこには、きつねの向けた無垢なやさしさも、
人魚の震える鱗も、蛇が入り江に棄てた熱も、
決して届くことはない。

届かなかった祈りの残骸は ....
世界に「欠け」が生まれたころ。

屏風山の青蛇は、
荒れる海の前に身を伏せていた。

水はどこまでも冷たく、
深く、
底はまるで見えなかった。

蛇は、
この悲劇の連鎖を止めるため ....
朝が近づく頃、一羽のかもめが
低く海面を渡っていった。

そのくちばしには、
海の底の人魚が託した、
一枚の蒼い鱗が挟まれていた。

長い夜のあいだ、
人魚は海の上を走る兎たちの足音を ....
空からこぼれ落ちた兎たちは、
そのまま深い海へと沈むはずだった。
だが、
彼らが底へ届く前に、
波がその体を激しく弾き、
兎たちは夜の海面を走り始めた。

月へ帰ろうと必死に跳ねる兎。
 ....
むかし、月が今よりも丸く、
夜がまだやさしかったころ。

きつねの子は、海の底を思っていた。

月の光が届かぬ夜、人魚は歌をやめ、
暗い水の中で
静かに身を抱いて眠ると聞いたからだ。
 ....
ずっと後の時代。

ひとりの子が、
渚で小さな石を拾いました。

石は光らず輝きもしません。
でしたが、
子は決して手放しませんでした。

誰かを救えなかった夜、
その石は掌の中で ....
海には、潮の満ち引きも
届かぬ場所があります。

そこには、歌も、やさしさも、
願いも届きませんでした。

残ったものは、
名を持たぬ石でした。

石は動かず、語らず、
何も教えま ....
世界に欠けが生まれたころ。

屏風山の青蛇は、
それを正そうとしました。

すべてを知る龍になれば、
道は見えると思ったのです。

蛇は身を削り、
荒れる海を越えようとしました。
 ....
夜明け前、鴎が低く海を渡りました。

くちばしには、人魚が託した
一枚の蒼い鱗がありました。

人魚は、夜のあいだ、
波間を走る兎たちの音を聞いていました。

音が増えるたび、
海の ....
兎たちは海へ落ちました。

けれど深い底へ届く前に、
波に弾かれ、
夜の海を走り始めました。

月へ帰ろうと跳ねる兎。

月の上から、それを見つめる兎。

同じ光から生まれても、
 ....
むかし、月が今よりも丸く、
夜がまだやさしかったころ。

きつねの子は、
夜ごと海の底を思っていました。

月の光が届かぬ夜、人魚が歌をやめ、
静かに身を抱くと聞いていたからです。

 ....
星になった河童を、見た者はいない。

夜空に、それらしい星もなかった。

見つかったのは、下流の淀みだった。

名もない場所に、
壊れた体が引っかかっていた。
しかし
誰のものかは、 ....
村では、あの夜の話は
語られなかった。

誰が家を抜け、
誰の火が消えていたのかも。

帳面には、
また一行、空白が増えた。
それは欠員ではなく、
河童という神の取り分だった。

 ....
翌朝、雨は止んでいた。

橋は残り、村も残った。

橋のたもとに、草履が一つ落ちていた。
長老はそれを拾い上げ、言った。

「河童が、星へ行った跡だ。」

河童は村を救った。

 ....
荒れる水の中に、“影”が見えた。

「あれは河童だ」と
誰かが言った瞬間、
助ける理由は消えた。

“影”は、
重いものを背負っていた。

甲羅のようにも、
石のようにも見えたそれ ....
その年、
雨が止まなかった。

村人が恐れていたのは、
流されることではない。
川底に沈めた重い過去が、
浮かび上がることだった。

「誰かが行かなければならない。」
それは命令では ....
板谷みきょう(435)
タイトル カテゴリ Point 日付
文書グループ
童話モドキ文書グループ26/2/13
弾き語る歌(うた)の詩(うた)文書グループ26/1/28
一行詩文書グループ09/7/3
投稿作品
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『越境の衝動』  第五章/風が去って手に残るもの[group]散文(批評 ...126/2/13 16:50
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