その2俳句の非ジョーシキ/佐々宝砂
いやだ。「カリー」が存在するなら、私は使ってみたい。顔の美醜という枷から自由になってみたい(まあ、常にカリーをつけていたいとは思わないけど)。しかるに「言葉の美醜」というものから自由になったら、私には、どんな世界が見えるのだろう。言葉の意味が直接に伝わるようになるのだろうか。ニュースの文体と言葉遊びの文体が同じように見えるのだろうか。これは「顔の美醜」よりややこしい問題だ。言葉の世界では、スタイルと内容が明確に結びついているからである。一方、「顔の美醜」と「性格」は、ほんとははっきり結びついたものではない。美人みなタカビーではないし、ブスみなひがみっぽい、ということもない。性別についても同様だ。女
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