詩と“私”を切り離せ。/大覚アキラ
 
力的な性の在り方を詩として書いたとする。では、その作者が、暴力的な性嗜好を持つ人間なのかといえば、決してそうとは限らない。冷静に考えれば当たり前のことだが、詩というものは往々にしてそういう稚拙で誤った読まれ方をされやすい気がしてならない。

ぼくにとって、詩は決して“私”的であるとは限らない。ぼくの詩に登場する一人称としての「ぼく(あるいは、おれ・わたし)」は、必ずしも“私”個人を敷衍したものだとは限らないし、そこで語られていることが“私”個人の考え方や思想と等価であるわけでも、決して、ない。

日記的な呟きや、個人の内面に蓄積した澱のような言葉を紡ぐやり方で生まれる詩があっても、もち
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