『春と修羅』における喪失のドラマについて/岡部淳太郎
 
慟哭」のパートは『春と修羅』における中心的な部分を占めると言っても良いだろう。
 「無声慟哭」パートでは最初の「永訣の朝」が傑出しているが、つづいて「オホーツク挽歌」のパートについて見てみよう。
 「青森挽歌」ではやや幻想めいた風景の中で、死んだ妹としの面影が出て来る。このやや幻想めいたというのがミソで、この長い言葉の連なりの中に登場する妹はそうした幻想へと連なっている。つまりは、賢治の中での妹としは、聖化を通じて幻想の中の住人のようなものに変化してしまっているのだ。「無声慟哭」でのとしは死につつある場面から死んだ直後への時間の流れがあったのだが、「青森挽歌」でのとしは死んでからある程度の時間
[次のページ]
戻る   Point(3)