『春と修羅』における喪失のドラマについて/岡部淳太郎
 
いの/そらからおちた?」ものである。つまり、賢治にとって「銀河や太陽 気圏などとよぱれたせかい」とは、それだけで聖なるものなのである。ここではキリスト教的な宗教観よりも、より日本らしい万物に神が宿るアニミズム的な宗教観が現れている。そうした聖なる「せかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわん」を食べるということは、すなわち死に行く妹としをそうした聖なる「せかい」につなげる行為と見て良いだろう。更に言うならぱ、としが賢治にその「あめゆき」を取ってくるよう頼むのを「わたくしをいつしようあかるくするために」と言ってるのもポイントだろう。妹としの死が「わたくしをいつしようあかるくするため」と言うのは妙だが
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