隕石のながい尻尾/道草次郎
されるだろう。そうであるならば彼は何を見ているのか。看板の向こうを透かし見るある種の透視能力を彼が仮に有していたとしても、看板の向こう側には同じような醜悪なコマーシャルばかりが連なっているばかりである。おそらく彼は見てはいないのだろう、何ものをも。ここで視線と思われたものは、じつは精確なポーズのためのただの副産物に過ぎず、肝要なのは他ならぬそのポーズそのものなのかも知れない。挙手、と見えたものにもこの推論は当てはまる。それは挙手に見えて挙手に非ず、だ。よって本当は彼の(対象物に対する)意見などははなから存在しないのだ。しかしこれでは問題が解決するどころか元に戻ってしまう。彼がそのポーズをとるのは何
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