主体と他者 mixi日記より 2010年12月/前田ふむふむ
に変貌することは、十分に可能なのである。
なぜなら、客観的な存在として、平和という他者に携わっていないからである。
もし、携わっているなら、平和主義者として、この平和主義をいつでも批判できる場所を常に確保していなければならないはずだからである。
僕らは、現実には持っていない。ひとつ例をあげよう。
「憲法改正の国民投票には反対である。」という標語は、平和主義の修辞のなかにはある。
しかし、逆に「現・平和憲法を国民投票で、米国に与えられたものではなく、自国民のものとして、まったく改正せずに、自律的に獲得しよう」という発想の場所を用意していない。
僕は、仮説として、このような
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