現場のへその緒(1)/Giton
 
ます。}が、この長詩の“スケッチ”を行なった過程を詳細に実証しました。

もちろん、詩を読むのは、歴史や個人の伝記を調べるのとは違うわけですから、こうした研究が、そのまま作品の鑑賞になるわけではありません。
「詩はあくまでもテキストによるべきであって、作者に関する知識は、どこまでも単なる注釈として扱われる。」ということは、1960年代以後は賢治研究の中でも強く提起されていて(注:例えば、天沢退二郎氏、入沢康夫氏らの議論を参照。)、それ自体は、私もまったく異論がありません。

しかし、こう言えばいいのでしょうか?‥「彼の場合には、“1922年5月21日の小岩井農場”という特定の時と場所自体
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