山田亮太詩集『ジャイアントフィールド』について/葉leaf
 
という両義性がこもっているのである。
 本来、言葉というものは文化や秩序の側に属するものであって、多義性や両義性が生じるのは、文化や秩序に回収されていない周縁の領域、言葉にならない領域のはずであった。文化は社会に一義性を要求し、多義的なものを排除する。それこそ、詩が「わからない」「難しい」として排除されやすいように。だが同時に、文化はそのような多義的なものと接することにより活力を増すのであるし、文化自体も秘められた多義性を持っている。山田の詩は、連続的であると同時に非連続的、対象を増やすかのようで減らしている、そのような意味で両義的であった。しかし、この両義性は、何も言語の周縁に位置するものでも
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