山田亮太詩集『ジャイアントフィールド』について/葉leaf
 
でもなく、詩人がその想像力を「ありのままに」発揮させれば自然と生じてくる両義性なのである。いわば言語はその内部から両義性を生み出すのであり、言語はそれ自身として両義的なものだといわなければならない。詩的言語に接するとき、我々は、それを言語の周縁、異常物として扱うのではなく、言語そのものが内在する言語の本質だとしてとらえねばならないだろう。そして、言語が両義的であるならば、それを両義的なままとして、決して安定したものではなく不断の批判と反省にさらされ、どちらの極にでも傾きうるものとしてとらえるのが正道ではないだろうか。

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