器官なき身体の覚書2/イリヤ
を生産するもろもろのアレンジメントがただ存在するのみだ。アレンジメントとは本質的にリビドー的であり、無意識的なものである。否、無意識そのものである、とさえ言える。すでに私たちは知りすぎている。もはや私たちは互いに区別されたもろもろの機械について語ることさえできず、ただ互いに貫きあい、刹那的に多様体について語ることができるだけだ。私たち一人ひとりがこのような操作にとらわれるなか、まさに自分の名前において語っていると確信しているとき、個人はその言表を再生産しているのだ。むしろ言表を生産するとき、個人は自分の名前において“語る”のである。
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ドラマが演じられるのは、他ならない器官なき身体で
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