歴史的自己 死者を介して mixi日記より/前田ふむふむ
と影響を与えるからである。
しかし、多くは仔細な活き活きとした部分は、削り取られていき、
嘗ては、はっきりと、リアルに現れていたものが、茫としたものに、変わっていくといえるのではないだろうか。
例えば、僕という自分自身も、原因として、また結果として、ひとつの歴史であるといえるが、そういう僕からの眼線で見れば、最も身近にいる両親は、遺伝的歴史として、主観的にではあるが、生々しく、僕の前に息づいている。しかし、祖父母のことになると、どうだろか。遥かな思い出としてあるが、遠い記憶として、段々と薄れていくといえるだろう。この横軸を、他人同士、即ち社会性のある人間一般として考えたらどうだろう。これが他
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