それは違うのではないでしょうか?──ぽえりんこ大会参加への第一歩として、ある分水嶺を予感しつつ──/藪木二郎
…)問題とも絡んでいて、断言することはできないのですが、それでも一応、その「『自動筆記』」も、「ディスコミニケーション」の方法だと取り敢えずは言えるのではないでしょうか?
上の二つの引用文中に見られる「何か」と「なにか」の一致から言っても、そのように言えるのではないでしょうか?
そしてその後者の「なにか」が、「日本大衆の俗情のもっとも深い暗部に根ざしている」のだとしたら、つまり、「日本大衆の俗情の」とはいっても「もっとも深い暗部に根ざしている」ということなのだとしたら、批評はむしろ、その「なにか」を掬い上げるような方向で、機能すべきなのではないでしょうか?
>大衆の俗情の底に沈む
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