それは違うのではないでしょうか?──ぽえりんこ大会参加への第一歩として、ある分水嶺を予感しつつ──/藪木二郎
 
のだろうか?

 こちらの引用文中にも「なにか」とあります。

「『自動筆記』」という言葉を現代詩の周辺で眼にした場合、多くの読者がまず最初に思い浮かべるのは、ブルトン辺りの名なのではないでしょうか? 私は詩の実作のほうからブルトンに接したことはないのですが、(ケチを付けようとして)現代思想関連の本などを読んでいますと、どうもそんな連想を、しばしば抱かせられることがあります。そしてそこでは、その「『自動筆記』」が、「俗情の張り付いた安定した『形式』」から詩の制作者を引き離すための方法として、紹介されているのです。まぁユング的な(あくまでフロイト的な,としておくべきなのかもしれませんが……)
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