笹野裕子「今年の夏」をめぐって/葉leaf
支持体となっている冊子全体にまで、「生きている」という錯覚が波及していく。
笹野の詩は笹野の生命を直接的に反映し、物理的な詩集としての「今年の夏」は笹野の詩を物理的に情報化しているのだから、笹野の生命は笹野の詩を介して詩集にまで及んでいるように感じられるのだ。これが可能になっているのは、笹野の詩が生気にあふれ笹野の生命を直接的に反映しているからだ。私は笹野の詩集を読むまでは、「この詩集は生きている」と感じたことはなかった。今となってはあらゆる詩集に生命を感じることができると思うが、そのきっかけは笹野の詩集であるし、笹野の詩集がその快活さゆえに読者に非常に生命を感じさせやすいことは事実だと思う。
[次のページ]
戻る 編 削 Point(1)