笹野裕子「今年の夏」をめぐって/葉leaf
 
夏」を手に取り、様々に角度を変えて眺め、心地よい重みを感じながら、軽くめくってみたりする。詩集は自ら目に見える動きをしたりはしない。だが、私には「今年の夏」は植物のように瑞々しく静かな生を営んでいるように思えてくる。詩集を動かしたりページを繰ったりするのは確実に私なのだが、にもかかわらず、実は詩集が自ら動いたのではないかとすら思えてくる。
 「今年の夏」がひとつの生き物であるという印象は、3で述べた笹野の詩の快活さに由来する。笹野の詩は生気にあふれているから、詩を物理的に情報化していて詩の印象の原因となっている詩集の文字たちが生きているかのような錯覚を覚え、さらにはそれらの文字たちの物理的な支持
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