短歌と文法、詩と文法/非在の虹
 
であるということであり、時代ごと階層ごとに微妙に用法が異なる、といった文法のカースト制も生まれるわけだ。そもそも、単語じたいにテリトリーをもっているのだからこのことは当然の帰結なのだろう。
さて、問題は短歌である。今日、短歌という長命のバケモノはどのように書かれるのだろうか。いや、書くのだろうか。
しかし、僕はもとより歌人ではない、コトバや文章で飯を食ったことは一度もない。まったくのシロートが口幅ったいことを言うには気が引けるので、この文章のはじめに「やちまた」についてだらだら書いたように、どこへ行くかわからない、僕自身の覚書として、書こう。これで幾分ほっとする。
日本人はまことに物持ちがよ
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