「感性の論理」はどこからくるのか---詩の非論理的な領域を読むということ、詩の非論理的な領域を書くと.../N.K.
たので、灯台はキリストの教えであるとする。だから岬に「みち尽き」てとは、そこから更に先の大洋、キリスト教儀のもっと奥のことは知るよすがもなく、ただ灯台の下にまで慕いより、群がるまでであるとする。「岬にみち尽き」には、聖書を何度となく読み返し、神のみ心をもっと更に知ろうと願った、そして聖書記載の事柄にとどまるほかなかった牧師暮鳥の、人間の限界に気づいたあるさびしさがよく現れているとされる。
この解釈に対して、大岡は語義の解釈から批判的な読みを進めて、「岬の光り」の「の」は主格を示し、「光り」が動詞であり「岬が光って」との謂いであり、魚もキリスト教の教義(灯台の光)に慕い寄るわけではなく岬の下に群
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