http://po-m.com/forum/
ja
Poems list
2024-03-30T00:39:34+09:00
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ざらついたにがみと
のどにひっかかるかんしょくは
それがおとといまで
ねむり おき くって ゆめもみたのだ とは
にわかにしんじがたかった
こどもだったころ
いちど ほねをおった
のれたばかりの
ほじょりんのないかぼそさは
あめのあすふぁるとからとんだのだ
しょじょひこうは ほんのすうびょうで
ちきゅうはまあるいのだと
おれはしったのだ
いたかったんだよ ぼくは
おおごえでないたんだよ
はははなにもいわない
もう こえが ないのだった
*
しじんがしんだよる むしょうにはらがへったので
ぱそこんで しじんのこんせきをあるいて
のどぼとけに ことばをひらった
やはり もうこえはなかった
しじんも もういたくないのだろうか
めのまえにはまだ こえがあるのに
かたみちだけのこうしんがおわると
わたしはかあっとして
したさきで し し し と
くりかえしよんで わかれをいった
こえは まだ なっている
ふかいうみのそこの
うつくしいものだけをくみあげて
あやしく あかるくひかる
はいいろの こえが
てれわらいしている
ふかいやみで てらしだすように
わたしはほねをくらったのだ
かみくだこうとすると
すぐにきえてしまう
かぼそいあなたたちのほねを ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=75204
自由詩
2006-05-20T16:21:27+09:00
-
でも
さようなら
でもいいが
それは
またね
をかくしているはずで
またね
は むぼうびなのに
わたしたちは
うたがうことをしない
まだ
ことばのないこが
たしかににぎっているこぶしのなかに
ふうじこめられた
やくそくのように
まだ
ゆうよされたなにかが
てまねきしている
と ぶえんりょなわたしたちは
またね
といってわかれる
ひといがいは
みな おおむねむくちなので
わたしたちは
うしなってからたちどまる
はた
とではなく
なぜか
ぼんやりと
]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=75177
自由詩
2006-05-20T11:33:15+09:00
-
本当のことを云うと、俺は「詩」を読まないヤツに「詩」を書いているフリをして欲しくない。「詩」に対して偏見や誤解を持っているヤツはいても自由だけれども、読みもしないで「難しいだの」「嘘くさい」だの「キモイ」だの云って欲しくないのは勿論だが、何よりおかしいとおもうのは、自身が「詩」と称するもの、或いは「ポエム」と称するものを書いているくせに「詩」を読まないなんて、俺にはまるで理解できない。
「詩」は確かに、そこかしこで見かけるキャッチコピーや、小説や、エッセイや、マンガや、歌詞の言葉に比べれば一見分りにくいものに見えるのだろうし、現に分らないモノもある。しかし、この「分りやすさ」くらい怪しいものはないのだ。「分る」とはそんなに簡単なことではない。「これはりんごです」と提示されて“ああ、そうりんごだね”と言うようなものだ。しかし、それで本当にりんごの何が分ったというのだろう?
「青い空」と云うけれど、あなたが見ている空は、本当に青いのだろうか?或いは「空」を見て、それが「青い」という言葉だけで言い尽くせるとするならば、あなたは空を見てはいないのではないか?上っ面だけを眺めて「分ったつもり」「知ったつもり」になってはいないだろうか?
詩人はその「分ったつもり」「知ったつもり」の物事を捉えなおし、普段何気なくに過している「空」や「りんご」にもう一度立ち止まり、捉えなおそうとする者のことなのだ。
空を見上げて、隣の人と同じ空に、隣の人とは違うものを発見する時「詩」は生まれるのだとおもう。
その「空」は、もうありきたりな「青い空」という言葉では表し得ない、云わば「新しい空」なのだ。その「新しい空」に相応しい言葉を捜そうとするのが、詩作と言う試みなのだと俺は信じている。
俺がそう信じるに至るまでには、結構時間が必要だった。様々な「詩」に触れ、自分も見てきたはずのもの、何気なく見過してきたものに立ち止まって言葉にしようと試み、それにある姿として成功したのではないかと思える作品に触れた時、俺は感動し、自分もそんな「新しい空」を見つけたいとおもって詩を書いてきたのだとおもう。
「詩」を読まない人は、果たしてそういう発見をしてきただろうか?少なくとも、ありきたりのキャッチコピーや、歌詞や、ポエムの中にそれを見てきたと云える人はどれだけいるだろう?
確かに、この日本で、ごく平凡に学校教育を受け、友達や、同年代の人達が夢中になるような音楽や、マンガや、ファッションに「新しい空」を見つけた人もいるだろう。そう云う人は、音楽家や、デザイナーや、漫画家をやればいいのであって、それはたとえ、生業として成り立たなかったとしても、やりたければそれをやればいいのだとおもうのだ。
「自分は、楽器も弾けないし、絵もかけないから、詩が一番誰にでも出来そうだったから書き始めた。」と云う人に時折出会う。きっかけとしてはそれもいいだろう。しかし、そのまま“詩なんて誰でも書ける”“簡単に自分を表現できる”とおもったままの人は「詩」なんて書いていないと俺は本気でおもっている。そして、そういう人は明らかに「詩」を馬鹿にしている。「詩」はそんな簡単なものでなど有り得ないのだ。
音楽家や、マンガ家や、デザイナーがそうであるように、それを生業としている人は勿論、趣味やライフワークとしてやっている人がそうであるように「詩」もそんなに簡単なものではなく、技術もいれば、訓練も必要なのである。
「詩」を書くための訓練として、何が一番大事かと云えば、他でもない「詩」を読むことなのだ。小説や、流行歌の歌詞の影響を受ける場合もそりゃあるだろう。デザインや、洋服に触発されて書けることもあるだろう。しかしながら、ピアニストがいくら美しいデザインを見て深く影響されたとしても、ピアノのレッスンを受けなければ弾けるようにはならなかったように、詩人も「詩」を読まなければ書けるようにはならないとおもうのだ。
俺の経験から云えば「詩」を書く力は「詩」を読む力にある程度、否、かなり比例するといっていいい。その形式や、用法、積み上げられた技術を学び、自分が表したいものを言葉に出来る技術を身に付けようとする努力なしに「詩」を書くことは出来ない。偶然に何篇か書けても、それが書けたと気が付くには、詩を書く上での自分なりの原則のようながなくてはならないはずだ。それを見つけ出すには「詩」を読む以外にないと云える。
「詩」が誰にでも出来る簡単なものとおもっている人が、これまたよく云うのが「自分の気持や思いを書きたい。」と云う事だが、この「気持」や「思い」とは一体何なのか、それを「詩」と云うものに昇華させるとどういうものが出来るのかと云うある目安を、その人は「詩」も読まずに一体何から判断するというのだろう?
確かに「詩」には「これが正解」というような明確な形式や方法があるわけではないだろう。それゆえ、そうした原則や、目安のようなものがなくても、書けた気にはなるのだ。
しかし、書けた気になるのと、書けることとの間には、大きな隔たりがあるのだ。
それは、先に云った「空」や「りんご」と同じく「分ったつもり」「知ったつもり」になっていると云うことではあるまいか?そう云う風に「詩のようなもの」を書いて満足している人に限って「詩」を読まずに、自分が書いている、或いは書こうとしている「詩」(或いは、あえて「ポエム」といってもいい)を書いている諸先輩方の詩業にまるで関心を払わないどころか、ある場合には食わず嫌いしているのである。
そんなに「詩」が嫌いなら読まなくていい!その代わり書くな!
そんなヤツが書いているものは「詩」ではない!
と、詩人は口にしないだけで本当は思っているのだ。少なくとも俺はそうおもっている。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=73125
散文(批評随筆小説等)
2006-05-04T01:48:33+09:00
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明日の予定を考えながら
窓の外を眺めて
濡れている植木鉢
サルビアの葉を這う
カタツムリになりたい
フランス人はカタツムリを食うらしいが
美味いか不味いかではなく
最初に食おうと決めた人は
きっとグルメ
カモメのジョナサンも
食わないでは生きられない
殺しながら生きているので
バランスをとるために
僕らは戦争を止められない
星の王子様は
砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているから
というけれど
砂嵐の中で今日も人が死んだので
家族は泣くのに忙しくて
いつも喉が渇いている
サルビアの葉を這うカタツムリには
涙腺がないらしいので
きっと幸せに違いない
(殺さないといけないんだ)
カタツムリになって白い皿に寝転びたい
明日の予定なんかもうどうでもいい
どうせまた
殺しながら生きて行くんだし ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=72782
自由詩
2006-05-01T02:05:04+09:00
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いわゆる「ポエム」であり、初めて購読した詩誌も「詩とメルヘン」だった。
「詩とメルヘン」は「ポエム」と絵と物語の雑誌であった。もっとも、10歳の子どもには、それが「ポエム」なのか「現代詩」なのかはまるで分らなかったし「詩とメルヘン」の隣にいつも一冊ずつ並べられていた「現代詩手帖」や「ユリイカ」は到底子どもの読める代物ではなかったのだ。後年になって、分らない、難しいとおもうようなものでも、それはそれとして読む気になれるまで、私は「詩とメルヘン」の結構熱心な読者であった。
中学生にもなると「詩」にも、色々なタイプのものがあって、「現代詩」とか「近代詩」とかがあるのだと知ったが、この頃も「ポエム」と「現代詩」の違いはよく分らなかった。ただ、自分の書いているものに納得が行かず、漠然と憧れていた詩人は、中原中也や、萩原朔太郎や、高村光太郎のような「近代詩」の詩人であった。もっとも、田舎の本屋や、学校のオンボロ図書室には、そうした有名な「近代詩人」の詩集か、谷川俊太郎氏か、あの、銀色夏生氏の詩集ぐらいしか置いていなかった。図書室には少しは現代詩の詩集もあったが、教科書に作品が載っているような詩人達の詩集が主であった。
田村隆一氏だとか、長田弘氏、川崎洋氏、石垣りん氏などのものを読んだ記憶がある程度である。その頃の私は、詩人と云ったら、生きている人では谷川俊太郎氏のことであり、後はもう亡くなってしまった近代詩人のことであった。
誤解のないように云っておくが、私は、その頃も、今も、教科書に載っていた詩人の作品が嫌いなわけではない。「詩」に馴染みのない中学生にとっては、教科書にある作品は、大変読み易く、心に残っている作品も多い。私が、茨木のり子氏や、新川和江氏を知ったのは教科書からであったし、他の科目と比較すればだが、国語は好きな方でもあった。丁度、教育実習で来ていた国語教諭の卵さんに、授業中に詩のノートを取り上げられたこともあったが、その卵さんが結構美人であったせいもあって、その方の授業は面白く受けた記憶がある。取り上げられたノートを返して貰いに行った折、卵さんは「銀色夏生よりは面白いわね、他の先生の授業の時は書かないようにね。」と、要するにお墨付きを頂いたくらいである。卵さんも詩を書いている方なのであった。卵さんが大学へ帰る前の日に挨拶に伺ったら「詩を書くなら黒田三郎の「詩の作り方」はお勧めよ、それと、あなたにはまだ早いかもしれないけど、一度は入沢康夫の「詩の構造についての覚え書き」も読んでみたらどうかしら?きっと驚くから。」と教えてくださった。後にこの二冊は、私にとって大切な本となる。
卵さんの予言通り、入沢康夫氏の著作は、私を大変驚かせるのだが、その話は長くなるので割愛することにするが、教えて下さった卵さんに未だに深く感謝している。
姉が、銀色夏生氏の熱烈な愛読者で、当時発刊されていた詩集は殆ど持っていたせいで、私も何冊か捲ってみたのが、これが「ポエム」から脱皮する糸口になった。
はっきり云って、私は銀色夏生氏の作品が大嫌いだった。こんなもんは金を出して読む価値はないとさえおもっていた。思春期の私は、当時から、田舎の小さな書店でも手に入るほど売れていた彼女の作品を、全身で嫌悪していたのだった。
「近代詩」の有名詩人達の「詩」は、確かに難解なものが多く、十分に読むことは出来なかったけれど、銀色夏生氏のそれより刺激的でカッコイイものだったのだ。しかし、にもかかわらず、当時の自身の作風は、そうした憧れの近代詩人の作品よりも、明らかに銀色夏生氏のものに近いことにを自覚していた。私にとっては、自作を銀色夏生氏と比較しても、卵さんが仰って下さったほどには、離れていない未熟なものだとおもっていたのだ。それはもう不甲斐なく、情けなくおもわれて、何とかこのぼんやりとしたただ甘ったるいだけの気持悪い世界から抜け出さなければとの強い危機意識が、私を「ポエム」から「詩」の世界へと向かわせることになったのである。
「ポエム」から脱皮するにはどうすればいいか?答えは意外と直ぐに閃いた。「真似ること」である。自分がかくありたいとおもう詩人の作品をテキストにして書けばいいと私は気がついたのであった。
私が最初に真似たのは高村光太郎や、金子光晴だった。中原中也や、萩原朔太郎にも、漠然と憧れたし、宮沢賢治も好きだったが、中也や朔太郎のシュールな世界は、少し難解過ぎて真似ることが出来なかったし、宮沢賢治の真似やすい作品は、自分が既に書いていた「ポエム」とあまり変わらないようにおもわれたのだ。思春期のガキは生意気なもの知らずだったのである。
高校に入った年、幸運にも、母校のあった町に、当時としてはかなり立派な図書館が新設され、それまで読みたくても読めなかった「現代詩文庫」や、様々な詩誌を読めるようになった。私は、その図書館に足しげく通い。分らないながらも、様々な作品に当たることになった。宝探しのように、どうにか読めるものを見つけては、気に入ったものや、心に引っ掛かったものを読み返すと云う風に「詩」に触れて行くのは、疲れもしたが、それなりに愉しい遊びでもあった。ほどなく、私は、何とか、自分が書きたいのは「現代詩」だと自覚することが出来たのだった。もう「詩とメルヘン」の熱心な読者ではなくなり、代わりに、何とか読める作品を手がかりに、図書館にあった詩誌を読み比べ、一番読み易い上に、他と比べればはるかに安価な「詩学」を購読することになった。勿論、田舎の書店には「詩学」など置いていない。図書館で定期購読の用紙を盗み出して記入し、翌日、母校の最寄にあった郵便局から申し込みをし、そこに私書箱を持って、到着日に取りに行くのだった。17歳の少年だった私にとっては、詩を書いていると知られることはとにかく恥ずかしいことだった。ほんの数人の友人を除いて、家族にさえ、知られぬためには、そんな面倒な手段を取るのも当然なことのようにおもっていたのである。
今、私は銀色夏生氏に感謝している。彼女がいなければ、私は今でも、あのぼんやりとした、ただ甘ったるいだけの「ポエム」の世界に囚われたままだったかも知れないからだ。銀色夏生氏から離れたい一心から、私は、私の書きたい「詩」の原型を模索することが出来たし、少しでもましな「詩」を書くために、不十分ながら学びもしたのである。思春期に彼女の作品に感じた違和感と反発こそ、私のエネルギーだった。今でも、書店や図書館で彼女の詩集をよく見かけるけれど、相変わらず売れているらしいことを、密かに嬉しくおもっている。
私は、もう昔ほど「ポエム」が嫌いではない。「ポエム」にも、良いとおもえる作品もあることを知ったし、現代詩でも、あまりに新奇なもの、難解過ぎると感じるものを、私は好まないのだとも気がついている。
「詩」は、自由なのだ。本当は「ポエム」も「現代詩」も優劣などない。詩人も、そして読者も、自分が書きたいものに向き合い、読みたいものを愉しめばいいのである。
「詩」を書くことは、私にとって、決して簡単でもないし、お手軽でも楽しくもない。ただ、書きたいと云う欲望と、この自由な文芸の魔力に魅せられてしまったものとして、私は書き続けて行くだろう。たとえ振り向いてくれなくても、もう嫌いになったりはしない。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=71692
散文(批評随筆小説等)
2006-04-19T22:48:01+09:00
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ご近所の軒先には日の丸が掲げられ 明日からは朝昼晩と防災無線で愛国放送流れるらしい
玄関のチャイムが鳴って お隣さんちのよちゃんがニコニコと回覧板を持って来てくれた
ご苦労様 と受取る 見ると「来月から試験的に隣組制度が始まります」とある
組長さんはね よっちゃんちのパパなの! 誇らしげなよっちゃんは 乳歯が三本抜けた白い歯で笑う
そう ご苦労様やね 宜しくねと 云うと
力いっぱい頷いて玄関も閉めずに帰って行った
居間のテレビをとりあえずNHKにして煙草に火をつける
臨時ニュースを申し上げます 先ほど総理官邸で臨時閣議が開かれ 当NHKは本日午後21時を持って 名称を従来の「日本放送協会」から「大日本愛国者放送協会」略称 DAKと改める事に決定いたしました 職員一同身の引き締まるおもいであります なお受信料につきましては 今後 滞納や支払い拒否の場合は 裁判所による財産差し押さえ仮処分請求を行うことと決しましたので くれぐれもお気をつけ下さいますようお願い申し上げます 万歳!万歳!日本国万歳!
万歳を叫ぶアナウンサーの頬は高潮し 目ばかりやたらと鋭く光っていた
詩人は最早地下に潜るしかなさそうだ 美しい愛国の春の前では
嘘つきは保護の外なのだ ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=71596
自由詩
2006-04-18T19:06:24+09:00
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「千円からお預かりします。」の「から」は不要なのではないかしら?
また「千50円丁度お預かりします。」は明らかにおかしい。「預かる」からには返してくれなければ嘘である。「丁度」ならば「頂戴します。」か「頂きます」と云うのが正しい。「預かる」のは、お釣りがある場合であり、それも「から」預かる必要はない。
また、飯屋で「ラーメン定食になります。」と云われる度に、内心「いつ?」「もうなってるんじゃないの?」と突っ込んでしまう。これから「なる」なら「なってから」出せとおもうのは私だけでろうか?
言葉は変わるものである。ある言葉が、時と共に、意味や用法が変化させながら使われ続けるのは仕方がないことかもしれない。けれど、ある言葉を使う時、自分が発している言葉の意味を考えないで使っている人を見るのは、気分のいいものではない。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=71490
散文(批評随筆小説等)
2006-04-17T17:50:36+09:00
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世間で「詩人」と云う存在がどんな風に扱われているか大体見当が付いている。詩人は皆、自称なのだ。現代詩文庫なんかに収録されている方達でさえ、詩だけで生計を立ててなどいないだろう。先日、国民的詩人の谷川俊太郎氏にお会いする機会を得たが、どうやら谷川氏でさえ、詩だけでは食えなかったらしいのだから、もし、詩だけで食っている方があるとすれば、銀色夏生氏ぐらいではないだろうか?
通常、肩書きとは、同時にその人の生業を表すらしく、詩で食っていない私は、やはり、「自称詩人」なのだろう。しかし、詩人とは、別に、職業でもなければ、食うための手段ではないのではないかしら?と俺はおもっている。俺は「詩を書いて朗読をします。」とは云ったが「プロです。」とか「詩で食ってます。」なんて云ったおぼえはない。音楽家にアマチュアと、プロがあるように、詩にもそれがあり得るとおもうからだ。残念ながら、詩人には「プロ」と云っていい人が少ないし、その「プロ」でさえ食えないのだから、世間ではなかなか認められないのだろう。しかし、そんなこととはまるで別のところで、私は「詩人」と名乗っている。私には詩を書くことしか出来ないからだ。詩をやめることが出来ないからだ。そう云う人間にとって「詩人」と名乗るのは自然なことなのだとおもっている。
尊敬する詩人の上田暇奈代氏が「詩人ってな、詩を書くことしか出来ひん人間のことやねんで。」と云って下さった事がある。私が「母親が死にかかっている時、いつかこのこと詩に書くな、とおもったんですよ。」と云った時に返された言葉である。私は、それ以来「詩人」と名乗っている。母親が今日、明日死ぬかも知れない時、その風景を詩のネタだと感じてしまった私は、ひょっとすると、人間としてはまともではないのかも知れない。けれど、私は事実、母の死を幾つかの詩に書いている。満足の行く出来ではないので、今でもこのテーマを持ち続け、言葉がいつかまたこのことにぶつかって、今度はもう少しまともなものが書けるようにと願っている。
「詩人」と云うのは、私にとっては世間で云う肩書きではない。生きる態度、生き方なのだ。私は、もう詩をやめたりしないだろう。楽しいわけでも、簡単に出来る自己表現の手段だからでもない。むしろ、苦しく、恐ろしい、難しいものだが、それでも、書かなければならないから、私は「詩人」なのである。
詩が、簡単に出来る自己表現の手段だとか、詩が楽しいから書いているとか云う人もあるだろう。しかし、少なくとも私は違うし、そのようにおもっている人を詩人だとはどうしてもおもえないのだ。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=71459
散文(批評随筆小説等)
2006-04-17T01:59:18+09:00
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地面から順に世界を捨てていったのだ
アキレス腱からハムストロングにかけては
やはり加速が強いが尻では一端躊躇する
背中はすべてを覚悟していただろう
椎間板の辺りか胎盤のまでは分らないが
子宮だけは傷つけたくはなかったはず
セックスをするのを止めてから
乾いてしまった君を
繋ぎ止めることが出来なかったのは
僕が言葉を知らないせいだとおもっていたけど
どうやら違う
美しくないものは存在する価値がないの
というけれど 世界は有機体なので
そんなに過不足なく成り立っていないよ
と 今ならもう少し優しく云える
墓標はてらてらと光り過ぎていて
人差し指に似ていないんだね
四月だからかも知れないけれど
後ろ指は指されないよ
よかったね
君は十六年と百六十三日の内
どれくらいちゃんと眠ったんだろう
もう起きたりしないでいいんだよ
手の甲にまだ君のあとが残っている
赤黒くて細くなった君はひりひりとして
ピカソとシャガールと朔太郎ばかり
吸い込んだ身体はもう
世界を捨ててしまった
美しいものにはなれないと
君は知ってた
君が知らなかったのは
十六年と百六十二日
君が描き続けた絵の様に
デッサンには時間が必要だったこと
世界は色を選べない
美しい四月はもう来ない
宙吊りになって揺れながら醜く
空だけは嘘のように美しいので ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=70989
自由詩
2006-04-12T01:33:53+09:00
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言い換えれば、詩は嘘でできており、詩人とは嘘つきのことである。嘘をつきたくないとか本当の気持しか書けないとおもっているなら、その本当のことや気持についてもう一度疑ってみる必要がある。詩は、事実を書いていても、事実そのものになどなり得ないのだ。嘘の力を借りないで詩を書くことはできないし、本当の気持など、そう簡単に言葉にはならない。「悲しい」とおもったにしろ「嬉しい」とおもったにしろ、その気持を突き詰めて言葉にしようとすれば「悲しい」とか「嬉しい」と云うような曖昧な言葉にはならない筈だ。「悲しい」には「悲しい」の底に「嬉しい」には「嬉しい」の底に、言葉にしなければならないが簡単には言葉にならないもの、言葉にならないナニモノカが潜んでいるのだ。そのナニモノカを言葉によって捉えなおそうとする行為こそ詩作なのである。
この事を遡れば、たとえ架空の世界、想像の世界の事を書いていても、作者がある言葉を拾いだす過程では、自らの本質と否応なく対峙せざるを得ない場合が多々ある。そういう時のことを、本音とか本当の気持とか云うならば、そういえなくもないが、本質的にはそれは架空のことであり、空想であり、嘘である。詩が本当のことを書くものだと誤解されるのは、言葉を使って、言葉にならないナニモノカに向かい合ったその過程が、読者に伝わるからなのだろう。だが、それはあくまで結果でしかないのだと、詩人の側は分っておかなければならないとおもう。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=70714
散文(批評随筆小説等)
2006-04-09T01:27:43+09:00
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雲は刻々と変わり稜線が滲む頃
ニッポニア・ニッポンは茶の間へ来た
貨物船に乗せられてたった二羽だけ
ニッポニア・ニッポン達は知らない
自分がたった二羽のうちの一羽で
四つ目の名前を付けられ茶の間で見つめられるのを
テレビが佐渡島の夕空を映す
何も知らないニッポニア・ニッポンに重ねて
世界のニュースを映す
遠くの戦場の少女も
記憶喪失の政治家も
いじめっ子の少年Aも
四角い檻に捕らえられて
もう何処にも行けない
四角い檻の外には誰もいないのだ
気付かずにいる視線の向こうに
幾千億のニッポニア・ニッポンがいる
他人の空は深く広い
ニッポニア・ニッポンはもう羽ばたかない
鼻先にシチューの香りがする
もうすぐ母が ごはんよー と呼ぶのだ ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=70461
自由詩
2006-04-06T15:55:21+09:00
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廃棄物処分場の見える小窓の角の
名前も知らない虫の屍骸を睨む
新しい靴はまだ買いに行けそうにもなく
何がしか捕食しなければならないが
手足はとっくに死んでいる
ラジオからは流行らしい歌が流れていて
負けるなだのガンバレだのと捲くし立てるが
昨日も首を括った人の事がニュースにもならず
新聞の死亡欄には死因の伏せられた死体が並び
処方箋薬がインチキなので
ついつい忘れっぽくなる
昨日死んでしまった人のうち
空腹だった人はきっと一人もいないだろう
空はいつも空腹で欲張りで寂しい
友達たちがいるよ と囁いて
今日も誰か連れて行くんだ
空には星座が多過ぎるのに
みんな無垢で美しいので
星に願ったりする
僕はズルイので星は見上げないで
窓の角の屍骸の名前を考えて
死亡欄に並べるのだ
流行性感冒の季節は続いていて
流行歌は何も教えてくれない
星座の名前を一つ忘れよう
明日は靴を行く
星の綺麗な夜を歩いても
忘れないでいられる
流行歌が聴こえない国に行ける靴を ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=70391
自由詩
2006-04-05T19:36:47+09:00
-
重ならないでいる
身体の温みの底で
遡れない時の残響が笑っている
空のような深い過程が
手と手を結びつける引力ならば
きみとりんごの木の下まで歩いて行って
飼っているサヨナラたちを捨ててしまおう
サヨナラたちは甘く
誘惑の色をしてるから
また飼ってしまうのだけれど
僕は何処までも卑しい生まれなので
今日は黙っていることができる
とほうもない道を歩く
手と手には
鋭いソゲが刺さっている
りんごの木の下まで
なるべく息を乱さずに辿り着いて
根元に言葉を捨てよう
信じるなんて嘘とかわらないよ
救われない手のひらには
二足歩行の罪が寄り添っている ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=70299
自由詩
2006-04-04T20:02:41+09:00
-
無目的な終点で
切符を破く
錆びたレールがセイタカアマダ草に埋もれて
どこで途切れているのか きっと誰も知らない
幸福駅 という名前の駅に流れ着いた若者は
それでもやがては 髪を切って街に帰って行き
もう忘れてしまった日 死んでしまった時間に
旗を立てるはずだった場所さえも
与えられたものだともう気付いてしまったのだ
背中に続く轍には鍵がかけられていて
誰かに見つけられるのを待っている
人差し指の向こうには幸福駅が初めからあったのだ
改札のない今日が過ぎてゆくので
セイタカアワダチ草のように
静かに揺れてはいられないだけなのだ
翻るのは昔の
長い髪ではない
鍵のかかった轍は続く
遠くで汽笛が鳴る ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=70018
自由詩
2006-04-01T19:51:06+09:00
-
離れの二階は落ち着きます
人工構造物にも 体温があるのですね
築三十五年の子宮は
隙間風やらひび割れやら歪みやらで
大地震でもあればひとたまりもないかも知れません
(わたしはひそかにたのしみです)
終戦記念日 誕生日の早朝
わたしは生まれた部屋で
電脳水槽に向かって ひっひっふう
と ことばを連ね
狭い世界の雲の巣の
かぼそく光る先端まで
人工構造物の子宮には
わたしの他には過去しかなく
ただ現象の降り積もる
それはまるで認知症の末期のように
乾いたわたしの母なのです ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=66151
自由詩
2006-02-21T12:12:30+09:00
-
整然と寝ていた床板が
めりめり
めりめり
起き上がる
半座位になり
座位になり
テーブルを跳ね上げ 止まれ!
睨み合う
鼻先から吸い付こうとする
くんくん
くんくん
嗅いでみる
血の匂いだ
墨黒の体液が心臓へ染み込み
動脈へと 走る
逼塞する
墨黒の軌道に耳を澄ます
Dear
Dear
と綴って
続きを
君の名前が
綴れない 痙攣する
記号化とは 死だ!
屍など溶けてしまえ
Dear
Dear
の続きを
舌の奥で捕らえ直し
呑み込んで
幽閉する 君を
再生するまで
声帯から胃袋までの距離に
Reverse
Reverse
伝ってゆく
自転の曲線にそって
Dear な君を
朝へとなぞる
そぉっと だが
確かに
********
詩の学校(上田暇奈代さん主催)@京都芸術センターにて即興書き、朗読
若干改稿後KSWSなどで朗読 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=59008
自由詩
2005-12-24T10:37:00+09:00
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詩は面白い、詩はカッコいい。小説や、芝居や、音楽に、映画に、ダンスに、あるいは美術作品に負けないくらい面白くカッコいいものである。
にもかかわらず、詩は売れていない。売れないから、詩集も、詩誌も馬鹿高い。馬鹿高いので馴染みがない人は手に取らない。まさに悪循環である。
で、これにはきっと原因がある。
私がおもうに以下のことがその主なものではないだろうか?
一つには、詩は誤解されている。「キモイ」とか「イタイ」とか云われて食わず嫌いされているのだ。そもそも、「キモイ」だの「イタイ」だの云っている人の多くは、ろくな詩を読んでいないか、詩でないモノを詩だとおもい込んでいるか、それとも、詩そのものに興味も関心もなく、ただ、イメージとして「キモイ」だの「イタイ」だのと云っているのだ。
本当は、そういう「偏見」こそ「キモイ」し「イタイ」し「モッタイナイこと」だと気付きもしないで。
だが、これにも原因はある。私がおもうに、詩との出会い方が歪なのである。
多くの人が最初に詩と出会う場は、学校である。国語の教科書には必ず詩の単元がある。短い人でも、9年間の義務教育中には幾つかの詩を読まされているはずである。しかし、まあ、はっきり云って教え方が良くない。このことを書くと長くなるので割愛するが、結論から云って、詩は教えられるものではなく、出会うものだ。しかも、いわゆる「お勉強」には馴染まないものなのだ。
詩と出会うもう一つの場所として、今日大きな役割を担っているのはインターネットである。検索エンジンで「詩の投稿」などと入力して検索しようものなら、それこそ夥しい数のサイトに出会うことが出来はずである。しかしながら、その中身が問題なのだ。
はっきり云って、詩は誤解されている。ろくに詩も読まず、文芸にさして興味もないであろう人達が、まるで日記か、落書きでもするように、何がしか書いていて、それを詩だとおもっているのだ。それは本来、人様の鑑賞にたえ得るものではない。まさに「キモイ」し「イタイ」ものなのだ。で、そうした「キモイ」「イタイ」ものしか目にしたことがない人達によって、詩は日々誤解にさらされねばならない。そんなもんは売れなくて当然である。私だって買わない。
だが、詩が売れない原因は今挙げたことだけではない。もっと根本的な、単純明快な理由がある、と私はおもう。つまり「売ろうとしないものは売れない」のである。
音楽ならば、その音楽を売るのを音楽家任せにはしない。ちゃんとプロデューサーがいる。絵画なら、画商がいる。みなその道のプロがいて、売るための戦略を立てて実行している。だから、売れるのだ。詩はどうだ?出版社は?文芸誌は?賞レースの主催者は?そこまで責任を負っているのだろうか?売ろうとしているのだろうか?
今、世間で詩だとおもわれているものに対するモノへの個々の評価は別にして、詩が売れないのは詩人のせいではないと、私はおもうのだ。
もちろん、「売れるからいいモノだ」と云うのは大きな間違いである。ただ、手立てを尽くせば「いいモノ」は少なくとも今よりは売れるのではないだろうか?
「キモイ」「イタイ」くらい売れない原因を、詩や、詩人に求めている「キモク」「イタイ」現状について、詩人自身が考え、手を尽くそうと云うのは、矛盾である。矛盾ではあるが、文句の一つぐらいは云ってもよかろうとおもう。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58435
散文(批評随筆小説等)
2005-12-18T15:03:16+09:00
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かしら 凛とした語気が受話器の楕円に沿ってひびく
夫婦なんて空気みたいなものらしいよ
の 君からの応答 螺旋を逆に辿るために
どんな言い訳もオヨビデナイ のだ
(携帯でなら軽いんだろな)
時代錯誤な塩化ビニールが鬼気に満ちている午前二時
溜息を殺した喉仏では気の利いた別れ話の泡が破裂してはまた膨らむ
(さよならだけが人生だ)
愛してる と口に出す時の後ろめたさはたぶん本能と理性とが表裏ではないと気付くからだ
欺瞞だからセックスできる 射精して直ぐ眠くなるのはジェンダー論の嘘を証明する弁証法 (猿モノは負わず 繰るものは拒めない 人類普遍の真理)男は勃起しなければ直立していられないのだ とする仮説を立てて詭弁を容易におもい付いてしまう 言葉は罪だ
(アイシテイル)
***
注)「話者=作者」或いは「作品=作者の思想」とおもわれる方は無視して下さい
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http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=55351
自由詩
2005-11-18T02:02:48+09:00
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コーヒーの湯気は婀娜っぽい
ブラックはもう飲めない
この頃は結婚式に呼ばれてばかりだから
フレッシュを二つ入注ぐ
深いマグカップに沈み混んで
滑って 昇ってくるのを待つ
寝ぼけた光の欠片
一瞬 蝉の抜け殻の色に似ている
指の腹 形而上的にしか温みはない
砂糖もシロップもなし
憶えたての味 自尊心 ぎりぎり
消さないで
退廃までの距離 無視して啜る
待ち侘びる声も 言葉も
届かないのだ
苦味ばかり舌に絡む
祈りなんて信じていないくせに
身を硬くして丸まっている ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=54986
自由詩
2005-11-14T13:55:35+09:00
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慣性の法則は働き者
流線型に磨り減ってゆく野心も
革靴の踵も その幾らかの理由を失ったまま
(前進 前進 前進)
追い風参考
公認記録に届かない僕らのために
インターネットと テレビがあって
ユニクロと 松屋と 100円ショップで
装丁された表紙には
『個性』 とか 『オンリー・ワン』
とか記されている
ハローワークまでの足取りには
言い訳が染み付いていて汗になって垂れる
モラトリアムは電柱を数えながら
追い風に孕まれて
心拍数だけがピン球のように跳ねて
息切れして また跳ねる
(ストロボ! 実はコマ送り)
自意識過剰なB級青年は
さっきから
何度もすれ違っているホームレスに
自分を重ねたりはしない
ようやくたどり着いた駅
ガード下 ダンボールハウスの傍ら
美味そうに煙草をふかすホームレス
左目の端で捕らえ 丸めて捨てて
携帯電話に目を移す
長い秋がまた
一つ目盛りを上げる ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=53746
自由詩
2005-11-01T13:56:50+09:00
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この拙文は、批評などという立派なものではなく、感想文である。
文中『あとがき』から若干の引用はあるが、作品そのものからのそれは行なわない。
理由は二つある。
一つは、そのような手法で作品について語るのは、優れた解説者や、批評家諸氏の仕事であり、私ごとき者が出る幕ではないとおもう。
二つ目は、これからこの詩集を手にされるかもしれない幸運な読者諸氏に、なるべく余計な先入観を持って頂きたくないからである。
この拙文が、この詩集に未知の読者諸氏の手が伸びるための、ささやかな助力になれば幸いである。少なくとも、邪魔にはならないようにと祈っている。
******
この詩集は、秋から冬に向かう風のようだと私はおもった。
個々の作品によって、当然、趣が異なるが、そこにあるのは、素朴な暮らしの発見である。発見と云っても、特に取り立てて目新しい何かではなく、極々ありふれた日常の事象や、心情の「再発見」である。
詩人は、ただ、素直にそれを観察し、書き起こしたのだとおもう。日常というのは、そうそう取り立てて心騒ぐような事象に溢れてはいないものである。うっかり暮らしていると、その輪郭さえも薄ぼんやりとして行き、捉えて言葉にすることなど覚束なくなる。
だが、詩人はそうではなかったのだ。それは、意識的にそうしたと云うより、詩人にとってそれは、まったく自然な行為であったのだろう。
詩人はそれを「デッサン」と呼び、詩作とは「呼吸の形をたどる」ことであり「速い息、ため息、深呼吸、あくび、色んな呼吸のリズムがある」と、自作を振り返っている。
“なるほど軽いわけか”と私はおもった。個々の作品で扱われた主題のそれぞれが“軽い”とはおもわない。むしろ、モチーフとしては、重い部類に入る詩が多いとおもう。
しかし、詩集全体の印象としては“軽い詩群”という感じがある。これは、はたして何処から来る“軽さ”なのか?おもうに、それは詩人の「虚栄心」の希薄によるものではないかと私はおもう。「何か後ろめたいモノ」或いは「恥ずかしいモノ」を見せてしまったような居た堪れなさに近い。だが、それでも曝け出さずに居れない、一言で云えば「実直さ」が「軽さ」になって表れていて、それが不思議な磁力を発している。
まるで後から吹き付けたような嫌な重々しさがまるでない。それが、詩人いわく「呼吸」の「デッサン」なのかと、心地よく得心が行く。丁度、夏場は湿って重く纏わり付く風が、秋から冬にかけて、ゆっくりと乾いて軽くなるような、だが、物悲しく、深い寂しさや、無垢な優しさ、少年のような、時に破壊的な正直さが、詩人の息づかいとして通ってくる。
実直であることは、簡単ではない。自己との対話を日々積み重ね、日和の良い日も、雨の日も風の日も、揺れ続ける内心から目を逸らす訳には行かないからだ。
ありのままに書こうとして、書けているところも、書けないでいるところも、言葉にして定着させることで、すべては詩人の再発見して作品化されているようにおもう。
作品化した以上、それはもう発見したとは別のモノである。けれど、それが「不作為」ででもあるかのように、無理なく頬に触れてくる。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=53479
散文(批評随筆小説等)
2005-10-29T15:36:42+09:00
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物体ではなく あたし の
(思考と存在 に 対する雑感
思春期めいた思考は
フォルマリン漬けにしてしまえ!)
意味でない もの でもない
反芻される する でなく される
(こきゅう の 拍の裏
びーと?)
叫ぼうかしら
声 かしら
とりあえず祭りの終わりなのね
(子午線一度までの緩急)
ぶれないでいいなら 死んでしまっても あたし しあわせ かも
イメージする メモライズされる
ホモ・サピエンスの脳は受動的
大脳新皮質の欠陥の発見は
脳ベル賞 っ かも
輪郭なのだとすると
触媒に生まれたかった
せめてゾウリムシ
ミトコンドリアの罪は
きっと 地球より重い
植物 そう
つくしんぼ
つくしんぼなら
生えていればいい
時々食用にだってなれる
豊かに休む
(生殺しじゃないの?)
リノリュームの床には
温度なんて
一粒も落ちてなかった
ラウンドする天使達は
非番の日にはマグロみたいにねむったり
悪口でランチしたり
貯金通帳も眺めてみる
それは幸福な瞬間の堆積なので
天使達に罪はないけれど
降るのが 雨じゃなくて
染みるのは静脈なのは
天使達が
まだ 天使のままでいるせいでしょ
さあ 夕方には
はどんな嘘つこうか
唾液だけが笑っている ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=53224
自由詩
2005-10-26T10:40:14+09:00
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何処かに置き忘れたのです
シナプスを飛ばして 過去の駅
遺失物預かりの四角い顔は
どうして揺れることがないのでしょう
同情して下さい なんて
云えないのだけれど
からっぼの胸骨には
脳味噌がすっぽり収まるので
代用には十分ですよ
と 云うのですよ 医者のヤツ
試しに頭蓋骨を砕いてみましょうか
ですって
ただし暫く真っ直ぐ歩けませんよ
ですって
ただでさえナケナシのプライドが
揺らぐじゃないのさ
血が流れていないのか
今朝からひどく寒いのです
まだ秋だというのに
街は冷蔵庫の底のようで
制服を着たカップルが
キス なんかしてる
マッチよりは温かそう
唇をなでると
手触りは骨に似ていて
輪郭だけが残っているのでした ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48436
自由詩
2005-09-08T09:53:10+09:00
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私は故郷といるのだ
何処へも行かない故郷は
やはり田んぼの匂いがして
葬式と悪い噂話が好き
山は刻々と死に 生まれる
夕方には日暮が鳴いて
21時を過ぎたら車は一台も通らない
呆けはじめた祖母と
夕食に鰻丼を食う
通夜から遅く帰った父と
ビールを呑んでテレビ
母の携帯電話はまだそのままのテーブルに置かれ
何の比喩も持たず ただ有る
父の愚痴を黙って聴く
耳は聴くための器官なのだ
唇は乾いたまま
父は質問はしないので
祖母への愚痴は涼しい
言葉は唇で流産し続け
私は罪になったまま
耳ばかり忙しいので
左右二つでは足りないで
時々瞬きなどして
故郷をかみ殺そうとするが
故郷は微動だにしない
テレビでは
方耳に補聴器を付けた
背番号30が
三振をとって
マウンドを均している ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=47694
自由詩
2005-09-01T02:10:25+09:00
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例外なく液体の飽和した皮膚の深部へ
浸透し 沈下し 腐臭となろう
腐臭は巡り 巡らせながら明滅している
素粒子の奥ではクオークが クオーク奥でも
明滅は休むことをしない
やがて心拍が止み 液体が消滅へと加速する時
腐臭は言葉をおもい出す
風と 土と あらゆる気体と液体との対話が
無神論の不滅を証明する
(ああ 科学と唯物論ののろまめ!)
ついに 孤独と セックスと 嘘と 空腹の正体を体現する
(そう そうしてきたのだ ホモ・サピエンス!)
なのに僕は忘れっぽい
存在すると同じくらい奇跡的に
自転が続いているのは 僕をふるい落とすためではないのに
二つの海だけが枯れず
僕は ついうっかり 正義以外の色を欲しがらない
今日も森が焼かれ 街が焼かれ 本が焼かれ 子どもが焼かれ
海は荒あぶる理由を失っても荒ぶる
言葉は音となり 幻の津波の果てに
生まれることを 忘れるのだ
]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=46652
自由詩
2005-08-22T17:18:48+09:00
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畏まって居られないらしく
文字達が泳いでいる
水族館にしては蒸し暑いし
少しも苦しくない
もともと肺呼吸がとくいじゃなかったんだからいいか
と独りの部屋
触れてしまえないものになれないで
胃袋で蛆が涌く
いっそ食い破ってくれるならそれで本望
さっき送って行ったばかりだから
まだそんなに遠くじゃないよね かあさん
線香の煙に乗るってどんなだろう
もぐるのに似てる?
運命の子は 八月になると
背負いきれない袋があるとわかるようで
拳を握り締めています
蝉が鳴いて きのうは戦艦大和みたいな雲が旋回しながら
やっぱり沈んでしまいました
つまらない喧嘩をして
首を絞められました
コロシタロウカ! というので オオヤッテミイヤ!
と応えてしまったのです
頚動脈の側の皮膚が少し 剥けました
手の痕が低音火傷みたいに纏わり付くので
まだ生き延びないといけないのですね
おめでとう と云われると
どうも均衡がとれないらしいので
僕はまだ 焼け野原のショウコクミンなのでしょうね
恥かしながら生き延びてしまいました
万歳! 万歳! 万歳!
殺意が揺れていて
どこかに預けてしまいたいのですが
どこもかしこも満杯なんだ
道理で一年に3万人も捨てられたりしてるはずなわけだ
言葉で生きているんだとおもっていたのですが
どうやら言葉で出来ているらしいのです
腹がふくれないのが難点なのだけれど
左腕を握る対になった骨は
簡単には折れない
謝ってばかりいるのに 嬉しい
かあさんは痛かった筈だけど
ずっと一緒だから
そのうちに慣れるだろう
運命の子 は 散乱していますよ
生んでくれてありがとう
なのだけれど
魚だったら よかったのかな
帰れないんだよね
鯨は ずるいよね
明日も晴れるかなあ
天気予報って意外と当たるよね
焼け跡にしては居心地はいい方なのかな
記念日が悪いわけじゃないのに
苛立ってばかりいます
生まれにくい日なのですよ
また一つ積んで
崩れてもいて
まだ お終いにならないので
腹 減ったよ ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=46148
自由詩
2005-08-17T11:40:25+09:00
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今回は、私が今注目している二人の詩人の名前を挙げながら、詩というものを考察してみたいとおもう。考察になるかどうかは、かなり怪しいのだけれど、とりあえず筆を進めてみよう。
尚、「批評」というわけではないので、作品の引用は一切行わない。気になった読者諸氏は、御自分でお探しになることをお勧めする。
例によって、反論、抗議、誹謗・中傷の類は自由であるが、無視する旨、予め述べておく。
一人目に挙げたいのは、最果タヒ氏である。彼女の詩は、分からない。分かる詩もあるが、大概の詩は、分からない詩である。これは、筆力がないからではない。最果氏自身が書いておられるように、「分かること」を目指して書かれていないからである。
おもうに、最果氏は「言葉の意味」というものを、まったく信用していないのではないだろうか?言葉の音と、イメージだけで、自己の内側に浸透して行こうとするような、危うい詩である。それは、行過ぎると、ある種の「自虐行為」のようでさえある。
詩を壊そうとすることは、自己と抜き差しならない所まで接近し、対峙しなければならない。これは、大変骨の折れる行為であるが、詩作の根源でもあるとおもう。その意味では、最果タヒ氏は本物であるかも知れない。
二人目は、鈴川夕伽莉氏である。鈴川氏は、私にとって、詩を書くことの切実さを感じさせる詩人である。しかも、分かりやすい。
鈴川氏の詩は、おそらく、他の誰にも書くことが出来ない。詩は、彼女の生活体験や、日々の雑感から出ており、そのことを、素直過ぎる程真っ直ぐに語る、という手法で書かれているのが、大きな特徴であろうとおもう。一般に、詩を読む際、「私」と「詩人」との関係には、注意が必要である。賢明な読者ならば、「私」=「詩人」という読み方は、あまり良い読み方ではないことを御存知であろう。しかし、鈴川氏の詩に関する限り、その注意が働かないということがしばしば起こる。それは、私の読み方の未熟さの問題もあるだろうが、そもそも鈴川氏の詩は「私」と「詩人」が極めて近い関係にあると考えるのが自然ではないかとおもうのである。鈴川氏の詩の最も優れた点は「自分にしか書けないことを誰にでも分かるように書く」という文章の基本がしっかり出来ているということであろう。勿論「誰にでも分かるように書く」とは、必ずしも「誰にでも分かる言葉で書く」ということではないのは、云うまでもないことであるが、文章の基本ということから云えば、筆力を感じさせる詩人だとおもうし、鈴川氏は「伝えたい」と願って詩を書いているのだとおもう。
私がおもうに、両詩人は、対極にいる。最果氏は「分かる」ということを捨てて書かれている為、読者に残るのは、印象だけである。自己と対峙し、それを叩きつけるようである詩行に、イマジネーションを掻き立てられずには居れない。一方、鈴川氏は「分かる」ということ「伝える」ということに重点を置いて書かれている。その、誠実な文体からは、“書かなければならなかった”という切実を感じさせる。
私は、この両詩人の作品のどちらともに、詩があるとおもう。同時に、詩というものの奥行きの広さも感じるのだ。
詩をいうものは、例外なく言葉で出来ているが、言葉の意味や、文法上の繋がりだけに捕らわれない自由によって作られる芸術なのだと、この両詩人は改めて教えてくれる。
昨今、ポエム流行のネット詩の世界にあって、こうした詩を読むと、私は安堵する“詩だなぁ 文芸だなぁ”と。
ポエムが駄目だといっているのではない。ポエムにだって良質なものはある。また、ポエムでなくても、駄目なものは駄目である。
では、そもそも、詩とはなんだろうか?この、自由で、奥行きの広い芸術を、どう言い表せばよいのだろう?
私なりに現時点でおもう所を言葉にすると、こうなった。
『詩とは、人の記憶との心に働きかけようとする行為の足跡である』 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=45287
散文(批評随筆小説等)
2005-08-09T13:24:53+09:00
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最近、某所の日記に、朗読について考えていることを書いた。日記だから、特定の個人に向けて書いたものではないのだが、やや、感情的と取れる反論があった。原因は分かっている。自分で蒔いた種なので、何を言われても仕方ないし、これ以上反論する気もなければ、種を蒔いたことを謝罪するつもりもない。謝罪したところで、和解できるかどうか覚束ないし、言い方や態度、場所柄などの点で、不適切であったのは間違いないが、自分の発言内容そのものへの確信は何ら揺らいでいないからである。まして、そのことをネットと言う場に持ち込んで議論するのは場違いであるとおもっている。ネットと言う場は、それがいかなる類の議論であれ、妥協点をお互いに見出せない場合、その議論自体、不毛に終ることを、私は知っているからだ。この文章は、その方への反論では決してない。ただ、私見を述べておきたいだけのことである。
例によって、反論、抗議、誹謗・中傷の類は自由であるが、全て無視する旨を予め述べておく。
と、どうでもよい前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。
「詩は求められているか?」と問われれば、私は、迷わず「Yes」と答える。なぜなら、詩を取り巻く環境は、大きな流れとして見れば、前進しつつあるからである。
確かに、詩は売れていないようである。一般に、詩集や詩誌を手にしようとすれば、大型書店に行くか、ネット販売に頼るしかない。詩誌については、その他に、定期購読と言う方法があるのみである。詩集の即売を中心にしたイベントなどが、東京、京都などでは行われているが、集まるのは、詩人か、詩に関わっている人々がほとんどで、まだ、とても一般に認知されたイベントとはなっていないのが現状なのである。しかし、そのような中でも、変化は生まれつつある。「ネットでの詩作」の広がりに伴い、詩誌の投稿欄には、一昔前なら考えられなかった、カタカナや、アルファベット表記の名義で作品を発表する、比較的若い詩人の入選が確実に増えている。ネット上で使っているハンドルネームもそのままに、詩誌に進出しているのである。もしかすると、ネットとは別名義で掲載されている詩人もあるかも知れない。更に云えば、昨年の「詩学最優秀新人」の二氏は、共にネットでの詩作から、詩の世界に入られた詩人である。
最近では、「ポエトリーリーディング」(詩の朗読)テレビ放送されている「詩のボクシング」児玉あゆみ氏らがNHKに取り上げられもした「スポークンワーズ」(言葉の異種格闘技)など、詩と言葉を届けようとする試みも、東京を発火点として、ゆっくりとではあるが、各地に広がりつつある。
どれも、一昔前ならば、考えられなかった状況ではなかろうか。これはつまり、まだ、本格的な広がりこそないが、人々が、潜在的には詩を求め、或いは、スタンスの違いこそあるが、自らも表現者として、“表舞台に出てゆこう”という欲求の広がりとして見ることが出来ると、私はおもう。
「スタンスの違い」ということから云えば、例えば“自分はリーディング中心”だとか“現代詩でなくポエムだ”“これからはスポークンワーズだぜ!”だとか云った違いがあるわけだが、そんなことは、それこそ“焼酎が好きかビールが好きか”はたまた“やっぱりワインでなきゃヤダ”“なに言ってんだウイスキーだぜ”というくらいの違いでしかないのである。その程度の違いは、全体の大きな流れから見れば、何ら対立し合うものではない。それどころか、むしろ素晴らしいことではないか!読者や聴者は、常に、自分に合うもの、面白いもの、感動するものを望んでおり、選択肢は多い方がいいのである。そもそも、詩の一番面白い所は「ルールがない」こと「自由である」ということなのだから、表現手法は勿論、詩の表出方法も、ルールは、始めた者が決めればいいのである。
ただ、当然ながら、今挙げたことをもって、詩を巡る状況や、詩人をとり巻く環境が、未だに厳しいと云う現実を、今すぐに変え得るものではない。しかし、こうした変化が、この先に何らかの影響をもたらすことは、ほぼ、間違いであろう。その影響に、私、個人として、大きくはないが、丁度、手のひらに収まるぐらいの希望は持てるとおもっている。そして、最も重要なことは、願ったり、祈ったり、希望を持ったりするだけでは、折角、傾きかけている流れを引き寄せることは出来ないということである。自らを詩人だと自称し、詩の閉塞を憂いている賢明な詩人諸氏ならば、こうした流れに、温かい眼差しを注ぎ、出来るなら、その発展の担い手や、支え手になろうではないか!それが嫌でも、無理でも、せめて、詩のいいお客様にぐらいはなろうではないか!
と、若干演説調になったので、どうやら、そろそろ筆を置く頃合であるらしい。
最後に、詩の市場性について書こうかとおもったが、それは、また、次に譲るとしよう。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=44806
散文(批評随筆小説等)
2005-08-04T15:57:04+09:00
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しかし、これらのことは、実は、枝葉の問題に過ぎない。幹は別の所にあるのだ。
賢明な詩人諸氏ならば、そのことにお気付きの方も多い筈だと信ずる。
そう!ネットには批評の役割を誤解している書き手が多いのである!これは憂うべき事態なのですよ、諸君!
反論、抗議は黙殺するという前提に立って敢えて述べたいのは『批評とは誰のためのモノか?』ということについてである。
単刀直入に云おう!『批評とは読者のためのモノ』である
評者は、ある詩に注目し、少なくとも、注目した点においては、その詩を認めているのだ。何の注目もせず、興味も持てない詩に批評など書かない。それでも書くという方は、よほど奇特な人格者か、世話好きで、お節介の過剰な方であろう。そういう評者には、素直に敬服するしかない。しかし、ほとんどの評者は、それ程御立派でもお暇でもないのである。したがって、いわゆる「酷評」に類するものであっても、それが、「誹謗、中傷の域を出ないモノ」でない限り、基本的に善意から生まれていると云ってよいだろう。
なぜなら、批評の役割とは、ある詩について、読者に新しい読み方を提示することを通して、読者の楽しみを、深く、豊かなものにすることなのだから。
その詩と詩人を紹介し、評価し、必要な場合には、推敲を促す。そのことが、詩人本人にとって、次の詩作の糧を与えるとすれば、それは素晴らしくこの上ないことではあるが、そんなことは、あくまで結果であり、副産物に過ぎないのだ。
云い換えれば、批評とは「紹介」のことであり、批評家とは「紹介する人」のことである。詩人の側が、そのことを踏まえずに、「好評」に浮き足立ったり、「酷評」うろたえたり、ましてや反論、抗議などするに至っては、本来なら「無作法者」との謗りを免れない所ではあるまいか。読者と評者との関わりの中には、詩人本人は割り込んではならない、オヨビデナイから失礼である。
こうした理解が前提になっていないのがネットという場なのである。これは大変残念な状態であると云わなければなるまい。このままでは、ネットにおける詩作の発展や、有望な詩人の発掘(或いは育成)、詩の読者獲得の可能性などを、小さく、狭いものにしてしまう遠因ともなりかねないとの恐れは、果たして私だけのものだろうか?
優れた批評のない場には、優れた詩人は生まれにくい。現状、詩人の数に比して、評者の数は余りに少ないが、それだけに、評者の果たす役割は大きい筈である。現在でも、ネットには優れた評者がいくらかはおいでになることを、賢明な詩人諸氏ならばご存知であろう。そうした貴重な評者諸氏が、自由闊達に批評活動を展開出来る環境と、批評と云うものへの理解を確立することこそ、ネット詩の大きな課題であると声を大にしたいのである!
ささやかな自戒と、貴重なネット批評家諸氏への感謝と尊敬を込めて。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=43876
散文(批評随筆小説等)
2005-07-26T18:01:03+09:00
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それはまったく自然なことです
地球が回っているのだとしても朝が来るのは退屈なのですから
僕はお布団で魚になって
箱舟に乗ったかあさんとはなしをします
火葬場で
さくっ と砕けたかあさんを
胸に抱えて帰るとき
空は雲ひとつない晴れた冬で
あまりに早く走りきってしまったかあさんは
空がこんなに広いなんてしらなかったろうとおもいました
それはまったく不自然なことです
骨壷を位牌の奥において
隣で眠ろうとしたのですが
お酒の力をいくら借りても
まるで眠くならないので
肺呼吸をわすれたのだとおもいました
骨壷を開けると
かあさんは頭から ちん と座っていて
頭蓋骨を一枚ずつ剥がして
喉仏をつまんでどけて
その下の小さな小さなかあさんの
かあさんの骨を
食べました
粉っぽくってざらついた骨は
簡単に砕けて
僕のものになりました
でもね かあさん
肺呼吸をわすれたままです
かあさんみたいに走れないので
僕は泳ぐことにします
上手く泳げなくっても
もう誰もお小言を言わないので安心です
それはまったく不自然なことです
僕は魚になります
それはまるで自然なことです
海の底は太陽が射してきても
冷たいので
地動説をわすれられるでしょう
それはまるで自然なことです ]]>
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自由詩
2005-03-09T15:48:09+09:00