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Poems list
2024-03-29T07:53:02+09:00
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それから、わたしたち二人はどうなったでしょうか。果林とは前よりいっそう親しくなったの? と、聞いた子がいます。どう答えていいのか、分からない。
「レズはいや」と言い捨てた友人もいました。その子とは、もう口を利きません。
……
わたしたちの関係は、世間で言うレズビアンとはなんの関係もないのです。
わたしたちのことを、誰かが悪口を言っても、わたしにはすこしも辛くない。
ただ、それだけ悲しいんです。わたしたちがいくら愛しても、それはすれ違いの愛で終わってしまう。そのことを予感として感づいていること。
わたしたちは、お互いを愛せなくなってしまうのじゃないかしら。人間としての尊厳はどうなってしまうんだろう?
……
そんな問いかけが、黙って見つめるしかない、わたしと果林のあいだで何度も往復しました。
「ねえ、あのときの気もち、茜さん、今でも覚えてる?」
「分からないの。……あのときも、分からなかった、だから。今も」
「そんな。かるい気もちでわたしと寝たの?」
「寝ることがよかったわけじゃない。ねえ、分かるでしょう。あのとき」
「分からないって言ったくせに」
それだけが、二人のあいだではじけ、果林がわたしをなじった言葉でした。
風に吹かれるまま、わたしたち二人は歩いてゆきました。
ある町のショー・ウィンドー(それはインテリア・ショールームなのでした)のなかに、果林はひとつの言葉を見つけました。「ハートフル・アート、アートフル・ハート」それはすぐに、わたしたち二人の音楽になりました。
果林は、わたしが手にした楽譜帳のうえに、その流れるようなメロディーをするすると滑らせていった。
まるで殺人事件のような(と、果林が言ったんです)それは、心地よいアンダンテでした。にっこり笑ってみせた彼女のことを、わたしはすこし恐いと思いました。
そして、それから、──そう。
二人は店のなかへ。
「なに?」
「中にはいっちゃえば。ね、そのほうが書きやすいし」
「これ、ここで仕上げるの?」
「今すぐ仕上げてよ。ね、お願い」
「そおね。茜さん、言い訳してね」
それを、わたしはさいしょの作品に、果林が世の中に聞かせるはじめての曲にしたいと願っていました。
じじつ、果林もそのことを望んでいたと思います。彼女ははじめて積極的に、じぶんから曲を発表したい、という気もちになりかけていたんです。そして、それがどんなオリジナルな方法なのかも、わたしは知らずに。
「茜さん、仕事探さなくていいの?」
「なに、急に」
樫のテーブルに頬づえをつきながら、果林が聞きました。
「だって首になったんでしょう」
「だって、首になったよ」
「ばか」
「……」
「ふざけて聞いたんじゃないのに!」
どんどんどん、とテーブルを叩いて、果林はアドバイザーの女性をにらみつけました。彼女には何の言われもないことだったでしょうけど。
果林は、すばやくわたしに目を返しました。でも、反対にわたしはその人のほうに気をとられてしまっていた。
「浮気っぽい人ね」
「なんでよ」
「仕事、ここですれば?」
「ばかみたい」
私は怒って、目を伏せました。
わたしも果林も本気ではありませんでした。わたしは、彼女の誕生日がやってくる次の週のことを考え、果林は、じぶんがこれから始める夢のことを考えていました。
梅雨期、それから夏もまぢかだった。
……
この夏が、二人にとってほんものの幸福になればいい。わたしはそんなふうに祈っていました。でもそれには、こんな状態、こんなバカンスみたいな時間を早く終わらせないといけない、そのことも知っていたんです。
果林よりすこしだけ多く生きてきた、いいえ、彼女の夢の深さが、わたしたちをへだてる溝のようにながれていました。
「仕事、探さなくてもいいの?」
果林がもう1度聞いてきました。そのとき、その目はどこか不安な、おびえる小さなけもののようでした。
「仕事、あるかな」
「ええ、もちろん。見つかるけど」とわたしは答えていました。
雨は、いやなものです。
この季節にはどこへも出たくないという気もちになります。新しい仕事にも、わたしはなかなか馴れていけませんでした。
仕事に行きたくない、わたしはなにか言い訳を考えついて(それはもちろん前日のうちからでしたけれど)1日家に閉じこもるのでした。
そんな日に、電話してみると、果林は留守でした。
淋しくなったわたしは、果林が置いていったスコアを、そっとキーボードで叩いて心を紛らせるしかないのです。
あんなに孤独を遠ざけていたはずのわたし。それがいつのまにか、果林いがいの人を考えられずに、一人きりを求めてしまっていました。
果林の曲は、二人がショールームで見つけたハート型の容れ物のなかにすべてしまってありました。これは大切な、わたしたち二人の宝石だったんです。
果林は、時どきその箱を撫でて、
「思い出がつまってる」と、つぶやきました。
「ねえ。どこからどこまでが思い出で、そのあと夢なの?」
「分からないよ。……夢は、これから現実になることじゃない?」
わたしは彼女の答えが、おぼろではなくて、希望なのだと思えました。
果林はたしかに音楽をその手に採ったのでした。なにかが輝いて、彼女の心のなかに今再びあったからです。
「ねえ。わたしたちって、知らず知らずのうちに変わっていくんだね。知らないあいだに変わってしまうから、そのことを知らないのね」
「なに言ってるの? 茜さん」
「わたしたちは知らないってこと。じぶんたちのことを、ちっとも」
「知らないのは、茜さんのなかのじぶんの感情だよ」
「どういうこと?」
「後から気がついて、ああ、そうだったって思うの。……後から気がついて、ああ、あれは間違いだったの、なんて言わないでね」
「……」
「茜さん、目が狐になってる」
「もういいわ。理屈は嫌いになったの。ね、土曜日は用事があったんだっけ」
「うん。その後で、会おう」
あの朝のこと。わたしたちが、じぶんたちの淋しさに気がついたあの日の朝、果林はわたしに向かってはじめてその想いをうち明けてくれた……
「茜さん、わたし茜さんのこと好きだ。でも、これはあこがれなんだと思う……」
果林は、ソファのなかから、顔を伏せたまま、わたしの肩に触れてきました。
「わたし、今日は仕事に行けなかった。もう、どこにも行けそうにない」
「ごめんね、ごめんね……」
「……」
「だいじょうぶ、わたし、いっしょについていくよ」
「……」
「茜さんのこと、好きだから」
「わたしが悪いんだ。あなたにこんなこと言わせたくて……」
「言わせたかったんじゃないよ。言ってほしかったんだよ」
「同じこと……あなたは優しいのね?」
わたしは、果林のちいさな顔のうえの赤い髪にさわりました。指のあいだを、そのすき透った細いものは、さらさら、さらさらと流れ落ちました。
「果林。髪、染めてるんだね」
わたしはその時なにげなく気がついたように静かにたずねました。何分間も、何分間も、それをしていたあとに。
「うん、……そう」
「こんなのにも、親がお金を出してくれるの?」
「わたし、親いないよ」
「いつ?」
わたしは──すこし果林のことを知らなすぎたことに……、驚きながら、自分を責めながら、やっと、その言葉が口にできました。
「神戸に住んでいたんだ」
果林の言葉は答えになっていませんでした。でも、わたしにとってそれは答え以上のものだった。いいえ、……十分すぎるほどに。これほどの答えがあるでしょうか? 果林はあの炎の中で、震災で、一番たいせつなものを失ったのでした。
わたしは手を引いて立ち上がりました。
そして、追いかけるような声はかかりました。
「どこへ、いくの」
「どこにも。いかないよ」
沈黙の時間が、しばらく二人に残されました。
「茜さん。……煙草もってる」
「なんで、吸うの?」
「うん、こういう時には」
「こういう時に、吸うものじゃないよ、煙草って」
「なぜ?」
「自分をやせ細らせていくだけじゃない、煙草って」
「茜さんはどんな時に吸うの? 煙草」
果林はソファのなかから少しだけその身を寄せてきました。
「朝」
「だから強いんだ。茜さんは」
「何言ってるの、関係ないよ」
わたしはそういうと、もう1度心を果林に返そうと思って、「お茶飲まない? カモミール。なんだかさみしいよ、お腹が空いて」と言い足しました。
「うん、そうね」
あ、だめ! ──急に、坐らないで、と果林が叫び声をあげると、わたしはどきりとして、右の足を果林の手につかまれ、気がつくと、数秒後には床のうえに引き倒されていました。
高い、高い、その視野に目をこらすと、果林はソファのうえに立って、わたしを見降ろしながら、笑って「見て、天井にも届きそうなんだ。わたし」と言っていました。
……
わたしの感情。後から気がついてこれがにせものだったなんて、わたしは決して言わないし、考えないと思う。そう……誓って。
わたしは笑いながら起きあがると、ジュエリー・ボックスのなかからピンクのカチューシャを取り出してきて、それを果林の手に巻きつけました。
「あ。すてきかも」
「お茶はやっぱり、ないから」
果林は無言でわたしの目を見すえました。
「ねえ、いく? これから」
「うん。二人で服を買いにいくの、すてきなやつを」
「それからカチューシャ。もっと好い色のが見つかるかも」
「そうだね」
&
そして土曜日。わたしは、本町の裏道にある喫茶店で果林を待っていました。
彼女もじぶんの用事をすませてからここへ来る、と言っていました。
こんな場所で待ちあわせたことがなかったから、果林がオフィス街なんかに用事があるのをふしぎに考えていました。
いつだったか、わたしたちが2度目に出会ったときには、二人は偶然話すことになったんです……。なにかが運命の糸を結びあわせて、それがたがいに引きあって。いまからは考えられないくらい離れていたのに、だんだんに近づいて、だんだんにおたがいを触れあわせようとして、必然のほうに引っぱってこれたと思うのです。
わたしは、ノートを取り出すと「変化」という題で詩を書きつけてみました。
冬いらいの久しぶりの詩でした。じぶんが生きてきた結果、たとえ未来がどんなふうに変化しても、それはそれで満足できるような気がしていたんです。
時間を忘れて頬をついているころ……果林はやってきました。
アイ・ラインと口紅がくずれていないか、ちょっと不安でした。
「前髪、すこし変えたんだね。茜さん」と果林が言いました。
「うん。でも、ほんの少しね」
「そおでもないよ。ずっと違ってる」
「そう?」
ハンドバッグを椅子にかけると、果林は周りをぐるりと見まわしました。
「今日は秘密文書をもってるの。こんなところで、だいじょうぶかな」
「秘密文書?」
「そお。これ」と果林はれいの楽譜を取り出しました。
「ああ、曲のことね」
「がっかりした? ラブ・レターのほうがよかった?」
「ばかね。……イってるわ」
果林の顔はほんのりと少し紅い色でした。
「直しもやって終わったの。いますぐに茜さんに聞かせてあげたいんだけれど。それはできないから、今度なんだけれどね。でもね、紹介してくれるって人に出会ったの。ピアノの弾ける店。そこで、本当にキーボードじゃない音で、茜さんに聞かせてあげられるの、わたしの曲。でね。今日はその人、画廊で個展をしているから、それでね……」
果林は興奮していて、その言葉をわたしに分からせるのにすこし時間がかかりましたが、話はこういうことのようでした。
果林は、音楽の店──ピアニストを雇ってくれるような、お店をさがして、あちこち歩きまわったらしいです。それはなかなか見つからなかったのですが(果林は未成年でしたし)あるところで出会った女性が、画家で、アドバイスをしてくれて、果林はインストラクターの空きを見つけられたそうなんです。
わたしがそれも知らずに電話をかけると、そのとき……(いつも果林は留守だったんですね)。
「よかったね。果林」
「うん、とてもよかった。なんだか、わたし今日はおしゃべりだね」
「ううん。とても大人びてるよ」
「カチューシャ、ごめんね。こんな服だから似あわないと思って、手にもってきたの」
わたしは、ふと気がつきました。
「忘れてたわ。……それ、もしかして初めてのプレゼントだったっけ?」
「うん。大事なものだよ」
「でも、スーツ姿にそれは。……ちょっとね」
「タンクトップにジーンズ、にも合わないよ」
「フリルのスカートのワンピースにも、だめね」
「あのグリーンのやつ、気に入ってんのに。それじゃあ何なら似あうの?」
「なんにも」わたしは意地悪い笑顔になって答えました。
「いやだ。なにそれ、なにそれ?」
なにそれ……と、もう1度果林が低声でつぶやきました。
「でも……、よかった。果林がこんなことを考えていたなんて」
「うん、でも。じぶんでも知らなかったけどね」
──知らなかった?
知らずに決まってしまうようなことでは、なかったけれど。わたしは果林の話した意味をそのときも聞けずに、大事なことをそのままにしてしまった気がするんです……。
その日、大事だったことは(わたしにとっては)まだこれからも何度も果林に会うことができるんだろうか? そんなことだったんです。
プレゼントのカチューシャは、わたしにとっても大事な想い出でした。
「あのね、果林。これだけど」
と、他に言葉の接ぎ穂も見つからなくて、
「カチューシャ。いや、ちがう……この曲だけれど」
「うん。わたしたちの曲」
「わたしたち二人の曲だったよね。早く聞きたい」
「うん、待っていて」
果林は遠くから人の声がかかったみたいに、どこか見やりました。
「待ってる。すごく長く待っていたから」
わたしは、他の言葉をいうべきだったのでしょうか。
「でも、待ちすぎると楽しくないよ。待ちすぎると、変わっちゃう」
それが──果林の考えでした。
「変わっても良いものはそのままだと思うけれど」
「わたしはイヤだ」
「でも、それだと喧嘩がえんえん続くことにならない?」
「それはどうして」
「わたしも知らない。でも、未来に自信はないから」
「それ、わたしを愛せなくなるってこと?」
「それはないわ。ぜったいに、ないわ」
「それじゃあ、どうして。どうすれば、茜さんを分かれるの?」
「?」
わたしはふっと口元から笑みがこぼれるのを知りました。
「果林。こんなときに、吸うといいのに。煙草……」
「そうかもしれない」
「ブランデーも、こんなときに飲めばいいの」
「そうね。やせられるかな」
「かえって、ふとると思うけど」
「あ、いやだ。夏なのに」
「夏なのにね……」
忘れていた時間のことを、わたしはちょっと思い出しました。
「夏なのに」
「夏だから、二人にできることをしようか……」
「えっと?」
「果林、プール行こうか?」
「みず?」
「暑いもの」
そう。暑いときには、わたしたちはどこかへ帰れるような気がして、そして、わたしたちは裸でいてもじぶんたちの自信を失わないでいられそうな気がするから、海に行きたがるのかも知れない。
わたしたちのぎりぎりさ加減を賭けて。
「それじゃあ、約束だよ。茜さんが連れていってくれるんだからね」
「連れていく? 果林におごらなくちゃいけないの」
「そう」
「そんな、約束はしない」
「明日で20歳になるの、そのお祝い」
「いいわ。仕方がないから、連れていく」
「投げやりだね、その言い方」
「投げやりでも、いいと思わない。投げやりに生きてきたからこそ二人は出会えたのかもしれないんだから」
それが、その夜の会話のなかで、まだわたしが覚えている最後の言葉です。
酔っぱらって、わたしたちはその夜電車のガラスを1枚こわしました。
……
果林はとてもきれいな細い体をしていました。「愛されるのは、あなたなんだ」と、あらためて言ってあげたいような、幸せな青空の子でした。
「それ、あたらしいファッションなの」
わたしは、さきに太陽の光にふれた果林にむかって呼びかけました。
「なに? このカチューシャ、水着にも似合うでしょう。恐れいったあ?」
果林は、大きすぎる声で答えてから、その日まだ不安だったわたしを一緒にプール・サイドまで引いていきました。
「ほら。どこに行こう? どこに」
「どこにも行けないわ、せまいんだから」
「うそ。茜さん」
「茜さん……じゃなくて。あなたがしゃべってるの、わたしは聞くだけ」
「ほら、ほら」
果林はわたしの腕をとると、その手首はずっと細かった……
髪をおさえながら。……風がすこし強かった。
脈をうつ鼓動が、果林の血管から直に伝わってきました。いま、彼女を感じ、彼女を支えていられるということがわたしの幸福でした。きっと気がつけば、これ以上のものはどこにも存在しませんでした。そしてこれからも。
……
「果林、わたしにはもうあなたしかいないよ、もう」
わたしは彼女に引かれるままに、告白しました。
「え? 聞こえない。……風が強かった。なに」
果林にはわたしの言葉が聞こえませんでした。でも、よかったんです。それを伝えることは不要でした。
「いいえ、なんでもない」
「そう?」
わたしは、ただ意志もなく二人をつつむ光をみて手を引きました。
……
そのとき、果林はわたしの手を握ったまま水に飛びこみました。しずかな水しぶきが、二人をかこんで跳ねたんです。
わたしはちょっとだけ驚いて彼女につかまりました。
「あ、あそこにね」──水上に出た果林は、わたしの肩ごしにつぶやきました、「悪い奴がいるの。むこうへ行こう」
「誰?」
「悪い男。わたしをナンパしようとしたの」
そのとき、押しつぶされそうな胸のなかでは(光をもった彼女とはちがって)わたしはとても、恐かった。こんどはとても苦しかった。
「茜さんが守ってくれれば、なんでもないただの男」
果林はそういって舌を出しました。
(わたしはただの女でした。……守りたい。でもそれができるの? 彼女よりすこし年上なだけで、なんの才能もないのに!)
「果林、聞いてほしいの」
……わたしの感情はとても揺れていたから。
でも、──その先を果林は言わせませんでした。
「茜さん、何も言わないで。いま、わたしはあなたの心が感じられるの。いま、なにもかもを信じることができるの。いま、わたしたちは黙ったままでも、すべてを通じ合える気がするの」
果林は、背泳ぎでわたしからすこしずつ離れていきました。
いつのまにそんなに離れていったの……そんな距離になるまで。
わたしは黙って逃れていました。
(ああ、……いけない、そうじゃないの?)
わたしは空を、高いものを見上げました。雲が、速く流れていました、果林の曲のように。
そうね、果林はいつでもわたしのことを見ていた。
(あこがれなんだ……、茜さんのこと……)って。
……
わたしはしずかに水を切って、果林に追いつきました。
「果林、わたしのこと信じている?」
「もちろん」
「わたしたちのかんけいがどんなふうに見られても?」
「同性愛は、悪だから?」
……
わたしは彼女をきゅっと抱きしめました。
「果林となら、変えてゆけそうな気がする」
「そう、できるね。茜さんとなら」
水のうえで、光りは揺れていました。
……
「おぼれちゃうよ」と、わたしは果林の声でわれに返りました。
「しっかりしてよ、茜さん。危険だよ」
「ごめんなさい」
「だいじょうぶ? オーバーロードしてない? あなたの感情」
果林はとてもきれいな笑顔でした。果林が笑うことを、わたしは何よりも待っていたのでした。かるいほほえみなんかじゃなくて、大阪の子がよくそうするような、心から吹き出すような笑顔を……
果林が宙にむかってさけびました。
「愛しあってるわ、わたしたち!」
それはまわりのすべての者たちへの彼女の宣言でした。わざと聞かせるために、だから大声でさけんだのでした。
世界は、急に二人のまえに開けたんです……。
男たちからは無視されたみたいでした。女の子が何人か手を叩いてくれました。でもただ一人、さっき果林をナンパしかけた彼氏がずいぶん遠くに立って、こっちをにらんでいるのを、わたしは知っていました。
「……茜さん、全員に聞かせるの」
「ここのみんなに?」
「みんな。イエス{ルビ様=さん}にも」
わたしは不安いがいの何かが心のなかに生まれていました。
わたしは、肩紐のしたですこし赤くなっていたハダに気づきました。
わたしは果林に笑いかけると、ささやきました。
「呼び捨てかいな?」
……
体中の血液を抜かれて、ミントティーでも注ぎこまれたような気分でした。
……
水からあがったとき、彼女はいちばんに口に出しました。
「茜さん、足長いんだね」
わたしは肩紐をすこし引っぱっていました。
「足がどうって?」
「その長い足、自慢なんでしょう?」
「そうでもないし。焼けやすくて困るの、これ」
「茜さん、肌よわいの?」
果林は、知らないものでも目にしたような瞳をしていました。
ちょっとそれには答えたくなくてわたしは彼女の肩をつねりました。
「意地悪!」
果林はそっぽを向くふりをして、でも本当はたぶん気になっていました。
あたりからの視線がものめずらしそうに、わたしたちを嘗めていたんです。
彼女の気もちがすこし可哀そうでした。
「果林、甘栗を食べたいよね?」──だから。言葉はわたしのほうからかけました。
「なに」
「甘栗。さっき、あっちに売ってたの。食べない?」
「この暑いのに? 熱いもの」
「熱いから。……暑いけどね」
──果林はバスタオルを手にとって歩きだしました。
わたしは{ルビ速歩=はやあし}の果林のうしろから(いつもみたいに)追いかけるように彼女についていきました。
「茜さん、あなたは、誰かに似ているから……」わたしを好きなわけじゃないよね?
果林は、その歩みを止めずにわたしに聞いてきました。
「だって、わたしは男の子みたいだから」
わたしは振りかえらない彼女にはっとしました。
それから、くすくすという笑い声を聞いたんです。
絵葉書のような雲が空からおちていました。
わたしたちはプール・サイドの長い距離を歩いてゆきました……。
光はつよく、さんぜんと降りそそいでいました。ショート・カットのゆれる神。背中までおちてゆく白い頸のライン。この気品こそ果林なんだって、わたしは気づいていました。
二人は甘栗を売る店につきました。
果林は、売り子の女の子の顔をみると、
「この人レズなの、知っている?」しずかにつぶやいたのでした。
……
二人は烏龍茶と甘栗をたべながら談笑しました。
幸福な思い出は型づくられていったんです……。こんな何気ない、大阪という街の一角に、ある夏の一瞬の日ざしのなかに。そして、思い出はまたとない、美しい尊い色をしていました。わたしたちいがいの誰でもない、わたしたちが愛しつづけたという彩りに染められて。
これは──誇らしさにつつまれていました。
しずかに時間が流れついたとき、果林は立ちあがって、「抱いて」と言いました。わたしにむけて、誰が耳にしてもかまわないような、毅然とした声をして。
わたしはまず、彼女の肩紐をおろしてそこに口づけました。それから、まわりを見ないまま、彼女が孤独を感じずにすむように……、しました。
「なぜ、肩にキスするの?」
(教えない)
「なにか理由があるんだ?」
雲からおちてきた影がわたしと果林を呑みこみます。──「ねえ、神様に言ってあげてよ」
「わたしたちのことを、悪く見ないで!」
果林が宙にむかって叫びました。
&
これいじょうは、何も書くことができません。辛いのです。
果林はいなくなってしまいました。彼女がどこにいるのかを知りません。
果林は、わたしの目線からもこの街からも消えさってしまいました。わたしと果林を知る子に、彼女のゆくえをわたしは必死で聞いてまわりました。幾夜も、幾夜も。それなのに、誰も知らないのです……
果林は離れるよう、決められていたにちがいありません。だって、彼女は大人だったのですから。もう果林は20歳になっていたのですから。ここにはいられないと気づいて、ここにいるのが自分でないと知って、どこかへゆくしかない。どこかへゆくことにした……、そして行ってしまった。
わたしはそれを知っていた。知らなければよかった。そう。知っていたから、それを書けば分かってしまう。……真実が、わたしを絞殺してゆく。
もう、何も書きたくない。これいじょう、わたしに話させないで、思い出のなかからわたしを苦しめるのを止めて! 果林。今。
わたしはあなたを愛していた……、 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2024-03-06T20:59:39+09:00
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男の子たちはみんなばか
あたしを置いて、どこかへ行っちゃう
果林が奇妙な歌を歌いはじめたのは、それに連なる日からです。
わたしはディオールの服とかを見つけて、一人とてもよろこんでいました。果林は、わたしをからかうみたいにこの歌を口ずさむので、言われているわたしは、なんだかとても恥ずかしい思いをしなければならなかった。
その日、わたしがはじめて果林から心の想いをうちあけられたその日、わたしたちはやっぱりミナミのミスティフルで待ち合わせて会っていた。わたしは果林とのあいだに友情を見出そうとつとめていましたが、果林はたぶん……男の子を恋したことはなかったのじゃないかと思う。
ミスティフルは、彼女が見つけ出してきた場所で、二人のためにいつでもおいしいクレープを料理してくれた。果林はダヤンが好きで、「ダヤン・ソースっていうヘンな果物ソースがかかっているから……」と、店の料理の腕前いぜんに、その雰囲気とか、お洒落さがすっかり気に入っていたみたいです。(よけいなことですが、……音楽家としてそれはどうか、とも思う)
その日の果林は心から楽しそうでした……
机のうえをピアノがわりにして、彼女が自分の曲を弾くんです。そのときほど果林が恍惚として、魅力的に見えたことはなかった。
果林は、水色のカーディガンにきれいなネックレスを着けていました。それが、はるかなもののようで、わたしには触れることさえできないような気がして。わたしはふとめまいさえ覚えたのです。
輝くものにたいして、わたしはその人の胸のなかを見たがるのかもしれません……
その日わたしたちが話題にしたのは「悪いことについて」。
「その一、悪いことを」果林はこんなふうに切り出したのです。
「いかにしてするのか?」
「え? 何。わたし今日、ひさしぶりの早番だったんだ。もっと軽い話題はないの?」
「いいんだよ、重くても」
「それは、あなたはね。それで、どんなことを言えばいいの」
「たとえば、ね……」
「たとえば」思いついたわたしがさえぎって言いました、「高速道路を原チャで逆走するとか?」
「生々しすぎるよ、それは」
「たとえばね、オレンジの皮をむいて、1枚1枚道に並べていくっていうのは」
「茜さんの発想ってとてもファンシーね。それってどこが悪なの?」
果林は笑みとあざけりを同時に浮かべて、わたしを見ました。
「ええ。その上を通った人をのこらず突きころがすって」
「わあ。悪」
さすがに果林は呆れていましたし、わたしも自分の言葉に驚いた。
「茜さん、こんなことって考えたことある? 誰かにとって悪いことでも、必ずわたしにとっても悪いことじゃないんだって」
「そんなの、誰だってあるよ、きっと」
「やっぱり大人ね。それで、きっと正しいことだって思う?」
「なにが」
「わたしの言ったこと……。わたしのすることが、決して悪いことばかりじゃないってこと」
「なんだか、果林は悪いことばかりしているような、言い方だね」
「そうよ。そうなんだ。わたしは悪いことばっかり」
果林がその後に付け足したこと、「あなたは良いことばっかり」それも低声で。
わたしたちはしばらく黙っていました。お互いに考えることがあって、気分がいいときには、二人は話さなくてもやってゆける。だから二人でそこにいて、そこにある空気を吸っているだけで幸福に時を過ごすことができる。今も、こわれそうな予感のただなかではあったけれど、わたしたちは今までどおりに暖めあい、労りあう友だちでいられるんだって……
そんなふうに感じていると、彼女は一人でぽつりと窓の外を見つめていました。
だんだんに暗くなっくる表通り。裏通りはもっともっと暗い。ただでさえ人は苦しいのに、果林のような生き方をしたら人はどんなに哀しいだろうか? 未来を予知するような、この考えが浮かんだのは、たしか彼女がふり向いてくれる2、3秒ほど前でした。
果林はいつものように快活でした。わたしは何か話さなければいけないような気になって、
「果林。こんど一緒に旅行をしたいの」
「急にどうしたの、茜さん?」
「ああ。あなたがいつか東京に行きたいって言ったの、思い出したの」
「あれは住みたいって言ったんだよ」
「そうだった?」
「うん。東京になんか旅行したってしょうがないじゃない」
「そうね。横浜なんかは、感じ良いのよ」
「いいなあ。横浜に行こうか、いっしょに」
「行ってくれば?」
「やっぱり、止めとく。わたし、大阪を離れる気ないんだ。ここがいいの。ここで、いいの」
わたしは果林の考えが子供っぽい気がしました。わたしだって何年も前には東京を離れるつもりなんてなかった。それなのに今はこうして果林と……。めぐりあわせというのは不思議な気がします。
「わたし、時どき果林に共感できない。あなたって悲観しすぎない?」
「悲劇的すぎる?」
「悲劇的すぎる」
果林は、うっとりする表情をしていて。わたしはそれを見て、震えました。
「わたし、あなたのそれ、すごく嫌だな」
「これってどれ」
「今の顔。辛いのを楽しんでいるみたいだもの」
「えへへ。ほんとはね、わたしだってここを離れたいよ。……なぜか分かる?」
「じれったいな」
「まるで、出会ったころに戻るみたい」
果林もわたしも、思い返すような目をしていました。
「初めて会ったころに?」
「ええ。あのころのあなたって、とっても秘密っぽかった」
「今だってでしょう」
「今だってそうね」
「やっぱりね、茜さんは何も分かっていないんだ。わたしのこと」
「ええ、そう。あなたのことが何も分からない。どうしたらいいの!」
「どうもしなくていいよ。どなることないのに……」
「ごめんなさい」
「茜さん?」
「でもね、友だちに秘密をつくるなんて、それこそ悪よ」
「また話が戻るのね。かたい話は嫌だって言ったくせに」
「ああ、もういいわ。わたしたち、本当へんなこと話してるわ」
わたしは今、果林をつき放したい(それこそ、わたしが望んでいたことでした)、果林の心を知りたいけれど、それに近づくのが恐いから、とつぜん会話を投げ出したんです。わたしはじぶんの心を知ることも恐かった。
「茜さんはそうやっていっつも逃げてゆくから、いっつも逃げてゆくから……」
「あなたはいつも謎ばかり。本当のことをほのめかしてばかり」
「謎なんて言ってない。本当のことは、茜さんこそ避けてる」
「音楽の話にしてもそう。わたしには分からないことばかり」
「あなたは詩人だもん。きっと分かってくれると思う。メロディーのなかでわたしの言いたいこと」
「知らないよ。知りたくないの」
わたしはいつものように彼女をにらんでいました。果林はぽろぽろ泣いていた。
お互いが、お互いの気もちを分からないまま、なんでこんな喧嘩が続くんだろうっていつも考えてしまう。こんなの本当につまらない喧嘩だわ、お互いがじぶんの気もちに素直になれないから、たぶん本当にじぶんの気もちに気づいていないから、こんなふうにお互い傷つけあってしまう。
今だって。わたしは果林のことを、本当はどうしたかったのかしら。いいえ、分かっていたくせに……。
「ねえ。恋人どうしって、こんなふうにいつも喧嘩ばかりしているの?」
「そうね。お互いを確かめながら、たぶん結ばれてゆくのね」
「ふうん、いいな」
「良くないのよ。わたしにはもう」
「茜さんは、思い出したくないことがある。そうなの?」
「そう」
「それじゃあ、言わない。わたし、茜さんに同じものを求めているもん」
それでもまだ気づかなかった、わたしは馬鹿だったのかしら。
その日はメーデーだったのでしょう。捨てられたメッセージやのぼりが、いたる所に転がっていました。自分たちの主張を捨ててしまうなんてことは、この人たちもあまり熱心ではなかったんだなと感じながら。
「ああ。働きたいな、とっても」果林は、天をあおぎながらつぶやきました。
「仕事しなさいよ」
「……」
「簡単じゃない」
「……」
「音楽馬鹿」
「何かいい仕事がないかな。ね、茜さん?」
「楽な仕事をさがしてたら社会人にはなれないわ」
「そんなんじゃないよ」
果林は、落ちているのぼりをかっと蹴りました。
青色街灯が彼女を照らし出して、そのまわりに同心円状のパターンをつくりあげていました。
わたしはとても切なくなって、彼女の顔をじっと見すえていた……。こころの暗い広がりのなかで、果林は決然として、わたしから離れてゆくような気がしたんです。
「哀れみは、いやだ」
「哀れんでなんかいない」
「なに?」
「あなたが思春期の怒りをぶつけたいだけなら、他の人にしてよ」
「なに言ってるの? ……茜さん」
そう。わたしは何を言っていたんだろう。何を願っていたから、あんな言い方をしたんだろう。
今、わたしは思う。きっと、きっとそれも分かっていたんだって。
「あなたがわたしに何を求めているのか、はっきり言ってよ」
「ずるい……。茜さん、わたしには茜さんしか、友達がいないんだよ」
果林は非難したい調子でわたしに叫びました。
「はっきり決められない人は、嫌いなの。男の子でも、女でも」
「決めたがり。茜さん」
「誰か……が、あなたには必要なのね。茜さん」
果林はささやき声でそう言いました。
それから、わたしたちは何をしたのか、あまり覚えがありません。
白い光と軽いざわめきが、朝の窓の外からさしこんでいました。わたしは煙草に火をつけなくても、その明るさで目が覚めたのでした。
果林がそばにいるのかどうか不安で、まず、最初に彼女のことを探したんです。
彼女はわたしに勧められたベッドの上ではなく、ソファのなかで毛布にくるまって眠っていました。
「……どうしたのかしら」
彼女の寝顔は安らかで、何もかも忘れ捨てた子供のそれみたいだった。
「何も、感じていなかったのかな?」
わたしはゆうべの想いを思い出そうとして、心のなかをそっとさぐってみました。でも、その中には何もありませんでした。
「悪いこと、悪いことって、しきりに言っていたような気がする」
「……」
「あれから、二人でお酒を飲んだのね、たぶん」
「……」
アパートのしたで、車が思いきり迷惑なクラクションを鳴らしました。
「……」
果林が、かるい寝息を立てた。
わたしは、彼女の髪のかかった額を撫でようとして、ちょっと迷いました。
「いやだ……。わたし?」
ゆうべのわたしたちは唐突で、なにもかも突飛でした。警官のいない交番に石を投げこんでみたり、笑ったり、地下鉄にただで乗ってみたり、それで降りるときにかえって困ったり。
お酒をたくさん買って。
それから、「ビリティスのむすめ」。
果林のそばに坐りこんだまま、動かずにわたしはつぶやきました。
もう、出勤しなければいけない時間のはずでした。それなのに、どうしても、今この部屋からは去ることができなかったのです。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2024-03-06T20:57:48+09:00
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冬の風がもうひたひたと吹きつけています。そんな季節になったのかと、なんだか意外な思いのように感じながら、書き始めています。いま、コンタクト・レンズではなくて眼鏡をかけました。もう、わたしには物をはっきり見ることはできないのだって、なぜだか切なく悟りきってしまったような気分です。わたしは詩人でした……たしかに詩人でした。
彼女と会ったのは、いつごろでしょうか。梅田の喫茶店で見かけたのが始めだったと思います。彼女は、窓際にすわってあっ、という顔をしていました。おかしなことを人の目に見せる人だなあとその時感じたんです。だって、梅田というのはああいう街でしょう、人の行き来も多いし、みんな知らない人ばかりというのが当然です。それなのにあんなに親しそうな顔をして往来する人びとを見つめるというのがわたしにはとても信じられない光景のように映ったのです。
なぜ? なぜというのもおかしいようです。だってわたしたちは親しい人に会ってもめったに本当の顔をあらわさないんですから。
彼女は、ノートになにか書きつけているみたいでした。あとで聞いた話ですが(ああ、こんなのは不自然な言い方だった)それは曲でした。彼女の音楽なんです。彼女は群衆を音楽にしている、そう言いました。そのとおりの言葉で語ったんです、「あたし、群衆を音楽にしているのよ……街ゆく人びとをね」
ふっとしたことでわたしは彼女に話しかけました。小さな喫茶店だったんです。わたしと彼女とは向かいあわせでした。他にすわる席がなかったんです。わたしは店のボーイから、彼女の席にすわってくれるように頼まれました。わたしはどきりとしたんです。でも仕方がないな、という顔をしました。彼女はわざと怒ったようにわたしを見ないで急いでノートのうえに記号を走らせたようでした。わたしも彼女の心を見ないふりをしました。
それが、わたしがきっかり二度目にその店を訪れた時でした。彼女は、わたしがはじめてこの店に来たときも、二度目のその時も、偶然そこに居合わせたことになります。そして、わたしは一度しか見ていない彼女のことを、しっかり覚えていたことになります。
わたしはクロック・マダムとカフェオレを注文しました。
「そんなのは体に良くないよ」と、彼女がつぶやきました。
ボーイが白い小さな紙に書きつけて去っていきました。
わたしは、
「お邪魔して悪かったわ。でも、これが朝食なの」
「午後4時に?」
「仕事柄で。朝から食べる暇がなくて」
「今日はじめての食事? これじゃあ体に悪いわよ」
わたしは軽蔑的に笑ってしまったと思います。ちょっと彼女に悲しい思いをさせたかもしれません。
「だって、間食かと思ったんだから……」彼女は恥ずかしそうに言い訳しました。
わたしはフォクシー・モデルの眼鏡をちょっとはずして彼女を見つめました。そのときにボーイがカフェオレをもってきました。
「それはなに?」
「紅茶」
「ちがうわ」
「他にはなにも注文してないよ」
「ちがうわ。あなたがいま手にかけているものよ」
「なに? ペン……」
「ちがうわ」
「ノート」
「ちがうわ」
「外をながめているわたしの目」
「ちがうわ」
わたしは微笑をこらえて、意地悪く彼女を見かえしました。
「ちょっとなにかしらの意味を持たされた記号の集団……」
「ちがうわ。あ、いいえ。ちがわないかもしれない」
「これ? 音楽よ。つまらない音楽。高尚な音楽」
「どっちなの」
「わたしの曲よ」
そのときにわたしのクロック・マダムがやってきました。
「どうぞ。邪魔しないわ。いいから食べて」
「なんだか逆みたいね」
「人間の立場なんてあいまいなもんよ。どうでもいいようなものだわ。ほら……あれ。あの外を歩いている人たち。あの人たちは、あなたにとってなにかの意味がある?」
「いいえ。ないわ」
「ないの?」
「もちろん。ぜんぜん」わたしは当り前のように冷めた表情で、彼女のあとから窓の外にある通りを眺めました。
「わたしにはあるの。わたしには無意味じゃないの」
わたしは、わたしのクロック・マダムをかじりました。それから彼女の名前を聞いてみました。
「わたし? 果林」
「わたしは茜」
「それで、何を作っているの」
「教えない」
「聞かないわ」
三度目に果林に会ったのは梅田の駅でした。阪急電車から降りたわたしは、中央階段を二階へ下りてゆこうとしていたんです。
「泥棒!」と、どこかから声がかかりました。そして、突然わたしのそばを誰かがすりぬけてゆくのをわたしは見ました。
「そいつを捕まえて」と、太ってひどく醜い婦人がわたしのまえから走って近づいてきました。
わたしは急いで後ろをふり向くと、わたしをかすめて去っていったのは果林でした。そして、婦人から追われているのも彼女なのでした。
わたしは「あっ」と思って足を出しました。婦人がもんどりをうって倒れるのをわたしは感じました。
「あいつよ。それから、この女もぐるだわ!」婦人が醜い大声でさけびました。
わたしは周りの人間すべてから睨まれているのを知りました。一瞬あっけにとられた後、澄ました声で「大丈夫ですか、わたしの足がひっかかってしまったみたいですが」と答えていました。
「何を言っているの? あなたは今わざとしたんだ」
「あの女性を追いかけていたんですか。何か盗られたんですか」
「なんですって。あなたはあいつを助けたんでしょう、ぐるなんじゃないの」
「落ち着いてくださいね。駅の人を呼びましょうか」
「親切面しないで、泥棒」婦人は叫びながらのろのろと立ちあがりました。
わたしはただいい気味だと思って果林がどうなったのか、捕まっていないだろうかを心配していました。遠くを見ると、ざわざわと人が波を打っているのが、何事もなかったみたいに日常のようであるのを、なんとなくおかしくて笑いをこらえたい気分になりながら観じていました。
そして、ひどく退屈な沢山のことを、わたしは駅のなかのどこか小さな事務所で聞かれるのだろうと思いました。とたんに、わたしは何もかもが嫌になったんです。
わたしは、次の瞬間に駆け出していました……
果林はそのときにホームに居あわせた電車に乗って、神戸か、千里中央のほうへ行ってしまったにちがいないわ。それを案じながら、わたしは一息に改札へと階段を駆け降りていったんです。
「やられたわ! あいつら、ひどい連中のすることよ」
後ろから、追いかけるように婦人の声が聞こえていました。わたしの腕をとらえようとした人もいます。でも、わたしは捕まるわけにはいかないんです。捕まれば、果林のことを知っていることをどうしても隠せそうにありません。わたしは、なぜだか赤面しながら彼女の名前をつぶやいてしまいそうに思えました。
そして無事に……、無事にというか、そもそもわたしにはなんの関係もないのですが、数分後には、わたしは何心なくブティックの並ぶ茶屋町の通りを歩いていました。
「果林、あなただったんでしょう?」
四度目に果林に会ったとき、それはもちろん例の喫茶店でしたが、まっさきにわたしは彼女にあのときのことをたずねていました。
「ああ。やっぱりね、茜さんだったんだ」
「ええ、そうよ。あなた何をやったの?」
「なんにもしてないわ。……何をしたんだと思う?」
わたしはちょっと言葉をつまらせてから、椅子をひいてそこへ坐りこみました。
「あのね、わたしはあの婆あとはちっとも知り合いじゃないよ」
「当たり前だわ」
「なぜ?」
「だって……」
でも、わたしにはそれがぜんぜん説明できないことに気がつきました。
「あなたって甘いね。群衆のことをちっとも知っていないね」
わたしは、少しいらいらしてきました。
「ええ、そおね」
「あの人たちはね、ぜんぜん知りもしない人びとがね」果林は、おさえた考え顏をしながらこれを説明しはじめました。
「わたしたちのやり方しだいで敵にも味方にも、変われるものなのね。だからわたしは、あのとき、あの婆さんに触れていったの」
「なにか盗ったの?」
「あわてないで」果林は怒ったように笑いました。「なんにも盗ったりなんかしてないよ」
「そうでしょうね。そう、でしょうね」
「わたしね、あの婆さんを曲にしたの、即興でね。そして追いかけていって、彼女の持ち物のなかに……」
「え?」わたしは、果林のやり方というのを驚きそのものをもって受けとめました。
「……あの婦人から、盗ったんじゃなくて、あなたはあの人にその曲を、あげてしまったのね!」
「まあ、勘がいいんだなあ、茜さんは」
果林は、爽快な、という感じでほほえんでいました。
「驚いたわ」
「驚いたでしょう」
わたしは、果林がそんな奇妙なことをしたのには驚いていませんでした。はじめに言ったように、彼女の作曲の仕方に驚いていたんだと思います。
彼女は群衆を曲にしていました。いつでも、出合ったとき、出合った人のことを、その場で思ったとおりに音楽にしてゆくんです。それは、彼女の心が人に触れてゆける、動きそのものでした。波のような、でも見ず知らずの人からうける印象。いつだって、そしていつまでも、ひとつでしかない、ひとつしかできないその場かぎりの音楽。今、つくりださなければ、消えていってしまう一瞬の感激。そんなものを、はたして曲にできるのでしょうか。モーツァルトのような天才ならともかく。……いいえ、彼女はきっと天才だったにちがいありません、誰も聞いたことがないだけで。そして、一瞬のあいだに彼女は即興の曲を書き上げていったのです。そのときも、彼女が嫌いだとかんじる中年女のあとを追いかけながら。
「あのね」
「それで、曲名は?」
「え。センチメンタル・プロムナード。どお?」
「なんだか意味ありげね」
「そんなことないよ」
「どんな{ルビ旋律=メロディー}?」
「ええとね、ラ、ラ、ラーラ、ラ」
「ふうん。素敵ね。でもどうして」
わたしは案じるような笑顔で果林を見すえました。
果林は、わたしが冷笑しないのが意外みたいでした。でも、ちょっと答えたくないようにその時うつむいたのでした。
「ねえ、わたしたち……。いいえ、あの婆あ何と思ったのかな」
「それは、泥棒だと思ったでしょうね」
「その後は」
「あなたの楽譜を見つけたんでしょう? 驚いたかな。あなたのことを……気狂いだと考えたかもね」
「わあ、素敵だ」
「だって、なぜあげてしまうの」
「ねえ、あのね……。いや、茜さん音楽は好きなの」
「嫌いじゃない。それよりもどんなふうにおしこんだのよ。バッグに?」
「そう、バッグに……ねえ、出ましょうか」
果林はしだいに苛立ってくるようでした。わたしは面白いように心のなかで、くすりと笑っていました。彼女が、ほんとうはどんなことに悩んでいるのか、わたしは知りもしなかったからです。ただ、この街のなかで彼女と出合っていることに、今まで感じたことのない興味をおぼえて見ていただけだったんです。
申し訳ないけれど、わたしは果林を理解していませんでした。いいえ。できなかった。
「でも、どうして自分の曲を捨てたりなんかしたのよ」
「捨てた? そうかもね。だからって、無くなったわけじゃない」
「おばさんは捨ててしまうかも」
「ええ、でも無くならない」
もう出ようよ、と言って果林はさきに席を立ちました。わたしはその後を追って喫茶店のドアの鈴を鳴らしました。
梅田から扇町への通りを、わたしたちは並んで歩いてゆきました。
果林は、閉店してしまったお店とか、ぽつんと開いた心のすきまのような空地とかを、目ざとく見つけては何とかコメントをささやきます。わたしは呆けたような表情のまま、それを聞いていたのか、聞いてなんかいなかったのか。
とにかく、わたしは背の低い果林をその傍にかんじながら、とおく空のほうばかりを、季節物のくだものでも噛じるみたいに味わっているのが良かったんです。
「わたし、東京へ行こうかしら」
「東京へ行ってどうするの?」
「曲を発表するのよ」
「あなた、何歳なの」
「19」
「それじゃあ、芸大を受けなさいよ。音楽学校でもいいし」
「受けてどうするのさ」
「曲を発表できるじゃない。それ以外には発表の場もないわけじゃない」
「今さらって気がするな。あなたいっしょに来てくれる?」
「どうしてわたしが?」
わたしたちはちょっと立ちどまって、お互いに見つめあいました。
果林が、その時にもやはり少しだけ早くその場から歩きだしたんです。……
わたしは、偶然足がもつれたかのように立ちつくしていました。それでも、一瞬のことでしかありませんでした。
わたしは、何も迷うことなんかないように果林に{ルビ従=つ}いていったからです。
「あなたってこれからどうして生きてゆくの?」
「知り合ったばかりで、そんなこと聞いてどうするの」
「だって、果林が今東京へ行かないかって誘ったから」
「あなたは断ったじゃん」
「それは、そうね」
それっきり、わたしは蒸し返すことはしませんでした。果林が言わないのなら、わたしからも言う必要がなかったでしょうから。
「あなたが男性だったらなって、思うわ」
「どうして」
「東京へ連れてってもらうの」
「それは良いわね。わたしも、あなたが男の子だったらって気がする」
「なぜ?」
「だって、男の子のほうが似合いそうなんだ」
「ばかね」
「ああ、空がきれいよね」
わたしは果林の言葉に吊られるように夕雲を見あげました。そう……。扇町のミューゼアムまで来ると、わたしたちは淋しさをつのらせてしまっていました。
「この美しい季節を、曲にして」
「いいわ。あなたが、……おごってくれるなら」
「なにか、食べにゆこうか」
「わたしはホット・チョコレートでいい」
「ブランデーだけあればいいわね。わたしは」
「そう。それなら、あなたのいつも行くところへ」
{ルビ翳=かげ}りはじめた彼女の横顔を、わたしは目にしたの。果林はたぶん、空なんて見てはいなかった。わたしのことも、東京へゆきたいなんて気もちも。ただ、暮れかけている日ざしや、訪れのちかい冬なんかに似て、そう、ほんとうにそっくりで、悲痛な想いをやさしく抱いていたんだと思う。
「寒くなってきたね」
「ええ、秋だもん」
「ちがうの、冬がもうすぐだから」
「そう言えるかもね」
Allegro :
北浜のあたりを、歩くことが果林は好きみたいでした。でも、北浜というその場所が好きだったわけではないみたい。
冬のあいだにも、何度かわたしたちはプロムナードを連れそって歩きました。そして、春になると、わたしたちはお互いのアパートのあいだを行き来するようになり、親しさは二人のあいだでしだいに深まってゆくようでした。少なくとも、わたしにとってはそうでした。
桜と、梅の花とが、ちょうど咲く花を交換するころに、わたしたちはまた天満橋まで歩いてゆき、そこから引き返してきたんです。
音楽の話をするには良い日でした。果林はわたしの知らないことや、芸術の神秘にせまるような考えを夢中で聞かせてくれていました。わたしは、そんなときの果林の声を聞くことが好きだった。彼女の表情とか、その話題なんかよりも、とくにその声が。
それなのに……
阪神高速の下なんかをふらつきながら、果林はわざとわたしにあたるような言葉を重ねて口にしはじめました。なぜなのか、わたしは尋ねもしなかったけれど。今もそのことを思い返してみようとはしません。果林が不機嫌なのは彼女の体具合のせいと決まっていたし、そんなことは決して多くなんかなかったからです。
果林……。彼女がいらだっているのは、彼女の思い通りの音楽にじぶんをゆだねることができないからでした。
「ああ! あなた、子供の気もちなんてぜんぜん分かっていないんだ、茜さん」
果林が、とつぜん金切り声のような叫びをあげたとき、わたしは驚きました。
「子供って誰のことよ?」彼女の表情が、いつもの果林のとすっかり違っていたからです。
「わたし。わたしのこと、茜さんはそう思ってるんでしょう」
「あなたが……」
果林は、じぶんの悩みを人に話すことや、それを外に見せることさえめったにしない人でした。わたしは彼女の頭のなかで、どんな考えや希望がうずまいていたのか、過去にも今も思ったことがない。だって、彼女の理想にわたしをまかせることは、わたしという存在にとって危険だったにちがいないのです。
彼女はひとつの賭け、じぶんじしんをどれほど台無しにできるかに、まるで取り憑かれているみたいだった。
「あなたは子供なんかじゃないって!」
「子供よ、子供よ。まだ、子供なんだよ」
「だからどうしたっていうの?」
わたしは、果林というひとりの女をにらみつけていました。でも果林は、はんたいに子供という枠のない存在に帰って、わたしを見ていたんです。彼女が子供でなければ、どうなったのか。その時には彼女のことを憎まずにいられたかどうか、わたしには分かりません……
「子供は……」
「どうしたの、わたしに言ってほしいことをはっきりと言えば」
「わたしが言っても、茜さん、答えてくれやしないよ……」
「もう! じれったいな」
「子供はね、大人にはぜったいその気もちを分かってもらえないって、特典付きなの」
わたしが大人だってことを非難したいんだ。そしてわたしには、あなたに近づくことはできないって思っているのね。そう心のなかに呟いていました。芸術には、子供の心が大切なんだってことはわたしにも分かっていた。でもわたしは彼女よりも5歳年上で、もう世の中にはいりはじめた人間でした。彼女の純粋な気もちにくらべて、わたしの感情は屈折して、劣っている。だからこそ、わたしは果林にだけ夢を追ってほしいって、思いこもうとしていたのかもしれません。
結局、わたしはいちばん大事な点で勘違いしていました。わたしには、果林がわたしに求めているという想いそのものが、まったく見えていなかったんです。
「子供のままでいる人間を、世間はどう考えているの?」果林がぽつりと言いました。
いつのまにか、心斎橋までやって来ていました。
オフィス・ビルのあいだを、とり残された民家とか、さびしくて人気のなくなったお店とかを見つけながら。ときどきコンビニなんかがあるとわたしはほっとして、果林は道をいそぎ足になりながら、なにかを発見したいように二人で歩いてきました。
「ねえ、さっきのことだけれど」
裏通りにレストランがあるのをのぞきこんで「昼間は人が少ないね」と、果林が言いました。
わたしは彼女の後から寄ってみて、その胸に手をあてているウェイトレスを目にしました。「なんだか、お祈りしてるようだね」
「そうね。{ルビ閑=ひま}なのよ」
「わたしたちみたい」
「わたしたちは不良だよ」果林が笑いました。
「ねえ、さっきのことだけれど、わたしにできるなら果林の気もちを理解してあげたいって思うの」
「あなたにできるなら、わたしもそうしてほしいな」すこし待ってから、果林は答えました。
「音楽はやっぱりむずかしいよね。芸術には、純粋な子供の心が大切なんだ」わたしは果林の目をまっすぐに見て、話しかけた。
「わたし、果林の考えが知りたい。1年かけてでも、あなたが心に何をしまっているのかを分かってあげたい。今すぐにでもそれを言葉にできればって思うんだけれど。……だから、わたしが大人ぶって果林のことを馬鹿にしているだなんて、考えないでほしいよ。わたし、あなたも、あたなの曲のことも心配なの」
「いいえ。やっぱり、茜さんには何もしてほしくない。わたしのこと分かるだなんて言ってほしくない」
「なに。それが果林の答えなの?」わたしは果林につめよりました。
「ううん、茜さんは今のままでいいの。だからこそ、わたしたちは友達でいられるんだよ」
彼女はなぜかわたしの目を見ませんでした。そう。果林はおびえていたようなのです。
なんだか腹が立ってきたわたしは、(心ないことに)彼女の目をにらみつけました。わたしに心を開いてくれないのなら、なんで友達なもんか。そんなふうに思っていました。
わたしは今、じぶんの身勝手をせめることもできます。でも、それ以上にわたしたちは若かった、という気がしています。
そんなとき、
「わたし、茜さんの詩を読んだよ」果林がまたぽつりとつぶやきました。
「え?」
「あれはわたしのことを書いたものなんでしょう」
そう、それはわたしの詩でした。冬のあいだにわたしが書いて、果林に手渡した詩でした。
「わたし、あれを読んだよ。茜さんがわたしをどんなふうに思ってくれてるのか、すぐに分かった」
「そう」
じぶんの書いた詩の内容を、わたしはくわしく覚えていませんでした。が、そのなかにはたしかに彼女のことを描いていました。音楽に魅せられた美しい少女。まるでガラスの向こうにあるまぼろしのような彼女を見て、わたしは幸福を感じ、勇気づけられる、そんなことだったと思います。
「どうだった? だめだよね。あまり、あなたのことをうまく描けていなかったから」
わたしは気恥ずかしさだけで赤面していました。
「あなたは素晴らしい詩人よ。茜さんは、きっとすてきな詩を書くようになる。でも、わたしは音楽なんかもうどうでもいいんだ……」
果林は、たえられない様子でむこうを向いてしまった。
1996年の春のことです。
わたしは、1年前に東京からこちらへやってきたばかりでした。だから、それ以前にここでおこった出来事には、わたしにはほとんど親近感がない。果林がなにに傷つき、なにを悲しんでいたのかも、わたしは奇妙に見落としていました。それさえ分かっていれば、そんな世代のちがいにわたしが追いついてゆけたなら……、わたしたちは別れなくてもよかったはずなのです。
「わたし、たくさんの人が苦しむのを見てしまった。いったい何のために生きているの? 誰のために生きているの?」
それきり、わたしたちは何も言うことができませんでした。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=382081
散文(批評随筆小説等)
2024-03-06T20:52:16+09:00
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諦めを一つ手持ちて鬼は外
もう良いと言ってほしいの冬銀河
冬の雨寂しいという合言葉
父がいないわたしは起きる寒き朝
かけがえのない思い出に浸る冬の日よ
ただ過ぎる冬ざれの季節をかけ足で追い ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381563
俳句
2024-02-04T18:57:03+09:00
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寒さに負けて今日はただふるえるよ
今日は日付変更線を迎えたの
歯医者の帰り冬の寒さは身に染みて
ポテトサラダ父のために作る小寒の日
悲しみに無頓着なる冬の精 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381542
俳句
2024-02-03T20:02:07+09:00
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寒さなどなんでもないと呟いて
緩やかな上り坂なり我が冬は
初夢は霧と消えゆくそんな朝
さよならを言いたいのだけれど冬の暮れ
年末のチンジャオロースまた繰り返し ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381518
俳句
2024-02-02T18:56:36+09:00
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お節もなくただお寿司だけ買って来たる
父と酔いわたしも酔って三が日
悲しいと一言言えぬ年の明け
白鳥の鳴いて過ぎゆき朝涼し
忘れられ二度目の死を迎える冬 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381503
俳句
2024-02-01T19:31:39+09:00
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隣り合う慈しみなり冬木立
手袋をなくしてひとつ溜息ついて
一人ゆく孤独は友かミソサザイ
木枯らしに問うても答えはないままで ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381140
俳句
2024-01-09T17:48:31+09:00
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鍋の具を買いに行くけれど鍋はなし
一年が再び巡り冬至来る
カーテンを閉めて迎えるクリスマス
悲劇とは名ばかりなりて真冬の日
ため息に混じる希望やクリスマス・イブ ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381108
俳句
2024-01-08T16:50:11+09:00
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ジャケットの前をはだけて{ルビ寒=かん}に酔う
クリスマス迷い路のごとまた来る
北風にしかめっ面してペダル漕ぎ
猟人の夢見る果てに獣ありて
くだら野や夢遊ばせて二夜三夜 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381086
俳句
2024-01-07T16:57:37+09:00
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水涸るる言葉は遠き我が家ぞ
クリスマス待ち望む我は背信の徒
人形が笑いて顧みる冬の夜は
思い出の街を彩るポインセチア
新宿はクリスマス模様マネキンも ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381069
俳句
2024-01-06T16:36:20+09:00
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冬の夜は汚れっちまった悲しみに
冬日とて洗濯物は疾く乾き
漱石忌わがはいはまだ猫になれず
傘をさす日も遠くて傘買う冬の日
師走路の道の半ばに小高い丘 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381057
俳句
2024-01-05T16:47:46+09:00
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冬空がゴッホの絵のごと渦巻いて
小雪に現実の時間が追いすがり
玄冬や一歩踏み出す勇気はなく
強風で息もできずに冬駆ける
天邪鬼綿虫とにらめっこする ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381037
俳句
2024-01-04T17:17:34+09:00
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粉雪はぱらぱらぱらと肩に降り
初雪にまたひとたびのイリュージョン
冬ジャケットの汚れて洗濯もできず
湯冷めして体{ルビ顫=ふる}える午前午後三時
寒い夜熱いと言ってあなたは{ルビ竦=すく}む ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=381025
俳句
2024-01-03T13:38:58+09:00
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整理するとこういうことになる。
まず、彼女は交通事故にあった(それは君の元ルームメイトから後で聞いた)。そして、幸いに怪我は軽症で済んだのだが、君は記憶障害におちいっていた。君自身の名前も、家族の名前も思い出すことが出来なかった。スマートフォンには、君の元ルームメイトと僕の名前だけが残されていて、その他の連絡先はすべて消されていた。
これも後から聞いたことだが、その事故は君が自分から自動車の前へと飛び出していったようなものらしい。つまり、その時から君は精神を病んでいたのだ。いや、それよりもずっと以前から。君と君のルームメイトが別居するという話は、ずいぶんと以前から話し合われていた。そのことが確実に君の心をむしばんでいったのだろう。
病院側では、君の名前も分からず、両親の所在も調べることが出来なかった。両親の所在については、君の元ルームメイトも知らないらしかった。それは後で本籍地の情報を調べれば分かるだろう。ただ、まずもって君が誰かを確認するために、病院側では君の元ルームメイトに連絡を取った。彼女は、僕には後で自分から連絡をすると病院側に伝えた。
君はその時、身分証明書のようなものは何も持っていなかったらしい。ただ、君の記事が載っている冊子の切り抜きだけが、君の鞄の中に入っていた。病院側では、それが君のことだとは気づかなかったらしいが。君はそれをどうするつもりだったのだろうか。あるいは、離れて暮らしている両親にでも送り届けるつもりだったのだろうか……。
「とにかく合鍵を渡すから、彼女の家へ行ってみて。そうすればすべてが分かるから。……いいえ、なんとなく分かると思うんだ」
電話口でそう言う君の元ルームメイトのことを、僕はなんと無責任なのだろうと思った。それに、なぜ今さら合鍵など持っているのだろう。そのことを問い詰めると、「あの子に返しそびれてしまって」という答えが返ってきた。
僕は君への思い、というよりは、社会人としての責任感から、君の家へ行くことを同意した。そのほうが、君の治療も早く進むだろうと思えたからだ。君とは何の関りもない、いや、ほとんど関りのない僕が、君にとって重要な役割を担う、ということに僕はいまだに納得出来ないでいた。しかし、今はそうするより他に仕方がないのだろう。
僕たちが1度お茶を飲んだ、茶源堂で僕と君の元ルームメイトとは落ち合うことにした。
「はい、これが合鍵」
「本当に僕が彼女の部屋に入っても良いんですね?」
「あの子もそれを望んでいると思う」
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
「友人だからよ」
君の元ルームメイトは、その時だけはきっぱりとした口調で言った。
「身分証明書なんかは、取って来なくても良いんですか?」
「それは後で……病院か警察が手配するんじゃないかな……今、だからあの子の部屋に行ってほしいの」
「今だから?」
「そう」
「今って、個展の前っていうことですか?」
「そういう意味もあるけれど……、あの子の記憶が戻らなかったらって、考えるとね」
「不吉なことを言うんですね」
「そうかな。心配性なのかもしれない、わたし」
僕たちの会話は、落としどころがないようだった。とにもかくにも、君の元ルームメイトは君の部屋へは行きたがらなかった。成り行きからして、それはそうだろうとも思えた。しかし、僕が君の部屋に行くことにも、正当な理由があるのかどうか、僕には分からない。彼女の頼みを断固として断っても良いはずだった。
結局、僕は君の部屋へ行くことを決め、君の元ルームメイトから合鍵をあずかった。そこに何があるのか、僕には分からない。なぜ、そこに行けば何かが理解出来るかもしれないのかも、僕には分からない。画家の感受性が、一般人としての僕の感受性を侵食していた。ただ、そこに答えがあるのであれば、行くべきだと僕は思った。
*1つのティーカップ2
事故が起こって以来、君の家にはまだ誰も人が入っていないようだった。僕が運んできたコンクリート・ブロックも、まだ玄関先に置かれていた。君の元ルームメイトの部屋は、覗いてみるまでもなかった。そこはがらんどうになっていたことだろう。
僕はまずキッチンに行ってみる。そこには君の生活感が現れていると思ったからだ。すると、シンクの上に1つのティーカップと、レモンが1個置かれているのが目に入った。近くには100円ショップで買ってきたらしいスクイーザーもあった。
(君は紅茶を飲もうとしていたのだろうか、レモネードを飲もうとしていたのだろうか)と、訝る。
しかし、君がレモネードを飲もうとしていた形跡はない。グラスはすべて食器棚の中に納められていたからだ。そして、ナイフもカトラリー・ケースの中にしまわれたままになっている。
(君は一体何をしたかったんだろう……)
「警察は、空き巣でも入ったと思わないだろうか」と、僕は怪しんだ。こんなことをしている自分が意外にも思えたし、自分でも不審な行動を取っているということは十分に承知していた。
何か食事をしようとしていた形跡もなかった。冷蔵庫の扉を開くと、期限切れの食品がいくつか出てきた。ということは、この2、3日は君は食事も作っていなかったことになる。食事をする分には外食でも良いが……。今の僕にとってみれば、君は食事もしていなかった、という考えのほうが自然に思われた。
テーブルの上にはカビたパンが乗っている。僕は、「やっぱり」と思う。
(あの時の僕と同じ状況だろうか)
と、僕は僕が発熱して倒れそうになっていた時のことを思い出していた。しかし、君は歩いて街まで出かけていった。僕のように高熱を出して倒れていたわけではないだろう。ただ、何かが君を食物から遠ざけていたのだ……。
(自分自身を追い込むため? まさか)
画家の意地、というのだろうか。君は気力だけで仕事をしていたのではなかったろうか、と僕は考える。そう思えば、僕にも思い当たる節はあった。僕は仕事中は基本的に食事はとらない。そのほうが仕事の効率が良くなるためだ。しかし、パンがカビてしまうほど、というのはいくらなんでもやりすぎだ。
そんなことから、僕は君が病んでいたのは確実だ、と思うのだった。
「キッチンにはなんのヒントもない」
僕はぽつりとつぶやいた。しかし、君の部屋へと入っていく勇気が湧かない。そこは雑然としているだろうか。整然としているだろうか。カビたパンのように腐った食べ物が転がっているだろうか。それよりも何よりも、そこは以前のままの君の部屋なのだろうか。何か、すべてが変わってしまっているような不安に僕はさいなまれた。
(僕が訪れた日、あの時、君の部屋はどんなだったろうか?)
僕は思いを馳せる。
あの時は部屋の中は雑然としていても、いくらかの整理は付けられていた。壁には、何枚かの空の絵と、君と君の元ルームメイトの絵が飾られていた。君にとってそれらの絵は、いわば見本帳のようなものだったろう。それらの絵を発端にして、それらの絵を根拠にして、君は絵を描いていく。君の絵は、誰にも分からない連作のようなものなのだ。
そして、部屋の隅には過去の絵が丸められて置かれていた。それは君が経てきた道であり、君が捨て去った過去だった。今目にしなくても気になることのない、過去の遺物。そうして、君は君自身を乗り越えて来た。いわば、それらの作品は砂がすっかり落ち切ってしまった砂時計のようなものだ。今の君にとって、それらの絵はもうすでに必要ない。
僕は決心する。泥棒のような気持ちはあいかわらずだった。その日の僕はどうしても大胆な気持ちにはなれなかった。そこには、「もし君がこのまま君自身を失ったままでいたら……」という不安も混じっていた。
*1つのティーカップ3
僕は部屋のドアを開ける。
ほっとしたことに、君の部屋は以前のままのようだった。カッターナイフで切り裂かれているような絵もない。つまり、それらの絵は君にとって失敗作ではなかったわけだ。だとしたら、君は創作に行き詰っていたわけでもない……
(では、なぜ君の元ルームメイトは、僕に君の部屋を訪ねてほしいなどと頼んだのだろうか?)
異変は部屋の窓際にあった。そこにはイーゼルが立てられている。そして、作業のしやすい位置に椅子が移動されていた。「君は基本的に戸外で絵を描く画家だったはずだ……」と僕は思う。
部屋ではその仕上げをするだけだったはずだが、その椅子とイーゼルには長く使われているような雰囲気があった。
イーゼルの上には、1枚の絵が置かれている。僕は近づいていって、それを確かめる。そこには、余白を中心に扇形に描かれた青空と、その下にレモネードのグラスとティーカップが1つずつ、描かれていた。
(君は絵の題材にするために、レモネードを作ろうとしていたのか)
と、僕は思い当たる。
(それにしても、なぜレモネードとティーカップだろう?)
画家ではない僕には、その意図はすぐには汲み取れなかった。やがてぼんやりと、僕は気づいていく。レモネードは僕で、ティーカップは君なのだと。それが青空の下で2つ、並んでいる。それは切ない夢のような光景だった。
(君は、僕に恋愛感情を抱いていたのだろうか?)
僕は真っ先にあり得なさそうなことを考えた。いや、これは何度思い返してみても、違っているような気がする。僕たちの関係は共犯関係のようなもので、恋愛関係ではない。最初の出会いでは、僕は彼女の荷物持ちだった。2度目の出会いでも、僕は君と君の元ルームメイトの間を埋める余白のような存在だった。僕と君とは、決してそういう間柄ではない。では、ここから湧き出る気持ちとは何なのだろう……
僕は画家ではなかったが、君もその思いに悩まされたであろうことは、容易に想像出来た。何かが、君の絵をまた変えてしまったのだ。
「今までの絵は失敗作ではない」と、君は考えていただろう。しかし、新しく湧き出る想像力の源、その正体に君は我を失った。君は新しい絵の題材に翻弄されたのだ。いや、新しい人間関係に、新しい人生観に。
(僕が君に出来たことなど何もなかったはずだ)――しかし、「出来る」ということこそが問題だった。
君はいつしか僕を愛し始めていたのだ。今の君にとって、僕は単なる荷物持ちではなかった。単なるお客さんでもなかった。僕は、君にとっては君の元ルームメイトに代わり得る存在だった。そして、そのことが君を悩ませていたとしたら……。彼女が最初に君を裏切ったのではない。君が最初に彼女を裏切ったのだった。その思いが君を切り刻んでいく。
新しい芸術が生まれるたびに、君は自身の裏切りを深く胸に刻み込むことになる。女同士が愛する、ということを、僕は完全に理解出来るわけではない。ただ、君の元ルームメイトがこの部屋を出ていくことを決断したように、そこには誰にもどうすることも出来ない決裂が生じたことだろう。そして、今は君の元ルームメイトがこの部屋に入りたくない理由もよく分かった。
この場所は、すでに君1人の空間であって、彼女と2人の間で共有される空間ではなくなっていたのだ。
僕は、ふたたび画面の上のレモネードとティーカップを見つめる。それは美しい絵に思えた。それゆえに、魔術的なところがあるようにも感じられた。この魔術性に……君は君自身の今後を重ねてみていただろう。自分自身の創作に翻弄される自分。食べることすら忘れて、創作に熱中してしまう自分。それこそが、君の未来の写し絵だった。
しかし、君自身には君のこの絵を破棄してしまうことは出来なかった。
*1つのティーカップ4
それから数日が経ち、君の画廊での個展は中止となった。代理として、君の元ルームメイトが出席するという案もあったが、君がどの絵を出品することに決めていたのかは、彼女にも分からなかった。だから、そうした話は自然消滅してしまった。
病院では面会謝絶が続いていた。というより、君自身が自分が誰なのか、周りの人間が誰なのかが分からなかった。入院患者を病室に見舞う際には、家族だけが入室を許される。君の両親はすでに君の病室を訪れたらしかったが、君は無反応だった。君からは、「君」というすべてが失われているようだった。
僕自身は、と言えば、自分の仕事に忙しかった。君を見舞ってあげたい、という気持ちがないわけではない。しかし、病室から出て来られない以上、病院を訪ねて行っても無駄だと思えた。看護師に突き返されるのが落ちだっただろう。
精神科の病棟でも、面会室というものはある。そして、患者が外へ出ようという意思があれば、病棟の外で誰かに会うということも可能だ。でも、今の僕は君にとっては何者だったろう。友人でもなく恋人でもない。かと言って、当たり前の知り合いというわけでもなかった。
そうしたある時、
「あの絵にレモネードを描くことを提案したのは、わたしだったの」
と、君の元ルームメイトは言った。今では、彼女を責める気持ちは僕にはなかった。
「レモネードのグラスと、ティーカップを描いたみたら?って」
その後に静かに続けて言う。
「そうすると、途端にあの子の様子が変わってね。わたしが何を言おうとしているのか、気づいたみたいだった。そのころには、あの子にとってはあなたはかけがえのない存在になっていたのよ、きっと。……創作の源としてね」
「創作の源、ですか」
「そう。創作の源。だって、創作の源って『愛』でしょう?」
「彼女は僕を愛していたんですか?」
「上辺では、違ったでしょうね。そして、心の奥底ではまた違っていた」
望まない愛、というのは時に人を不幸にさせるものだ。僕は戸惑う。青空の話、スカイラインの話、入道雲やスーパーセルの話。僕が思い出すのは何気ない話題ばかりだった。しかし、もしかするとそれは君にとっては違ったのかもしれない。芸術を共有出来る可能性というものに、人は時として飲み込まれてしまうことがある。君がまさにそうだったのだろう。
「人の心って、複雑ですね……」
「だから芸術も複雑なの」
今ではもう会計士を目指している、という君のルームメイトは言った。その発言は、その場にあってもビジネスライクなものに思えた。
「ドライですね」と僕は言う。
「なら、彼女を愛せる?」
「分かりません。きっと無理でしょう」
「そうでしょう?」
僕を納得させるかのように、彼女は言う。それは、彼女が彼女自身に納得させたい思いでもあったろう。
「どうにもこうにも、彼女が彼女自身を思い出さなくては、どうにもならない……」
「それはそうね」
僕も君の元ルームメイトも、答えに窮していた。
「彼女は、僕と過ごす幸せな日々を思い描いていたんでしょうか?」
と、僕は聞いてみる。
「あの子は、芸術家のパートナーや家族が幸せにはなれないことを、よく知っていたわ」
君の元ルームメイトの言葉に、僕はその通りかもしれないと思った。
「僕たちに共通するものって、何でしょう?」
「情熱、ね」
君の元ルームメイトが答える。
「仕事への情熱、生きていく上での情熱。生命力、のようなもの」
そして、ぽつりとつけ加えた。
「わたしにはなかったな……」
「なら」と、僕は言う。「彼女は自分を取り戻せるんじゃないですか? 自分が何者なのか、自分の周りにいるのが誰なのか、自分が何をしている人間なのか」
「彼女が自分自身のことを思い出すのは、絵筆を持つ時だけよ」
芸術家だけが持つ鋭さで、今度は彼女は言った。
「でも、今の彼女には絵筆がない……」
*1つのティーカップ5
その時の僕に思いつけたのは、君にレモンを贈る、ということだけだった。徹夜明けの日には、毎日君のいる病院に通った。最初は絵筆と絵の具を持って行ったのだが、「うちではそういうのはちょっと」と、看護師に断られた。
君の元ルームメイトも、時折は病院を訪れているようだった。しかし、見舞いにいくのが土曜日か日曜日なので、僕と鉢合わせることはなかった。彼女は彼女なりに、責任というものを感じていたのだろう。いくら捨て去ったとは言え、芸術というのは彼女自身の領域でもあった。
君に直接会うことは、まだ出来なかった。「歩行も困難な状態ですから」と、看護師は言う。「それに、あなたに会っても誰だか分からないと思いますよ。親御さんのこともまだ思い出していないんです。自分自身が誰かも」
でも――と、看護師は言う。「贈り物であれば、受け取ってもらえるかもしれません。彼女が望めばですが……」
その言葉がヒントになった。僕は決まってレモンをいくつか買って、君のいる病院を訪れた。病棟の手前で看護師を呼び出し、君にそのことを伝えてもらう。何度かは拒絶された。しかし、何度目かからは受け取ってもらえるようになった。
「『レモンを贈ってくださる人がいました』と言ったら、『そうですか』って」
看護師が言う。僕のことは、やはり誰だか分からないらしい。僕も、僕自身が何をやっているのか分からなくなってしまうことがあった。それでも、僕は君のいる病院に通い続けた。今では、僕のほうでも「君を愛していたのでは?」と思うようになっていた。
それが何から始まったものなのかは分からない。君と会った時から始まっていたのか、君が事故にあって初めて沸き上がった感情なのか、記憶の底を探っても僕には分からなかった。でも、なんとかして君に君自身を思い出してほしい、という気持ちだけがあった。そして、叶うなら以前のように絵筆を取ってくれたら……
合わせて数回しか会ったことのないような人間がそこまで執着する、ということを僕自身も異様に思わないことはなかった。しかし、それが運命ならば受け入れる、という気持ちはあった。何よりも、そのころにはすでに君という存在が僕の生きる理由にもなっていた。そうでなければ、連日の徹夜仕事などはこなせなかっただろう。
いつしか、「その人は誰?」と、君は看護師に聞くようになった。
「あなたにとって親しい人ですよ」と、看護師は言う。
僕が数回しか君に会っていないということは看護師にも伝えていたから、彼女たちにとっても気まずい面はあっただろう。あるいは不可解な、と思っていたかもしれない。ただ、「あなたのファンですよ」とか、「あなたの知り合いですよ」と言わずにいてくれたのは、感謝しなくてはいけないところなのだろう。
そうしてひと月、ふた月が過ぎていった。君の記憶はまだ戻らなかった。ただ、自分で車椅子に乗って病棟内を動き回れるくらいには、回復したらしいことを看護師に伝えられた。君の両親は、君に会うたびにがっかりして家へと帰って行った。実の娘が自分たちを理解出来ない、というのはどんな気持ちだったろうか。
そして、ある晴れた日のことだった。僕は病棟の外にいる君を見かけた。その日は天気も良く、君自身の体調は良さそうだった。「何も思い出せていない」ということを除いては。
僕ははっとして、君に近づいていく。そして、何の知り合いでもないように、「こんにちは」と声をかけた。君は弱い声で、「こんにちは」と返してくる。僕の手の中には、紙袋に入ったレモンがいくつかあった。
「これを」と言って、僕は君にレモンを手渡す。
君はまじまじとその果物を見ていた後、
「あなたがわたしにレモンをくれる人ですか?」と聞いた。
「そうですよ」と、僕は答える。
「なぜ、レモンをくれるんでしょう?」
「それが、君の思い出につながるかもしれないから……」
「そうなんですか。ありがとうございます」――それは、完全に他人に対する言葉だった。しかし、そう言った後で、君は首をかしげる。「この果物は、良い匂いがしますね?」
君が以前香りに気を使っていた、ということを、その時僕は思い出した。「それならば、レモンが君の記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。君が絵を描いていた時のことを思い出してくれたら……」
「もう一度聞きますが、なぜわたしにレモンをくれるんでしょう?」
「僕はね、レモネードが好きなんです。毎日飲んでいる。君は紅茶が好きみたいだけれど」
「それで、レモンなんですね。あなたはわたしにとって親しい人なんでしょうか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「なんだか、なぞなぞみたいですね」――ふふふ、と君は笑った。
僕は悲しいような、嬉しいような気持ちになった。そこに未来はあるのだろうか、と僕は考える。そこに未来はあってほしいように思えた。つまり、君と僕とが共有出来る未来が。……今、君の病室にはいくつかのレモンがテーブルの上に置かれているはずだった。
「それでね。いつか君が良くなったら、その時には僕がレモネードを、君が紅茶を、飲みながら話したいと思うんだ。いっしょにね」
「それは楽しそうですね」画家とは思えない口調で、君が言う。
「そしてね、君にはお気に入りのティーカップを用意してあげるから」と、僕。
「ティーカップですか?」
「そう、ティーカップ」
「なぜ?」とは、君は聞かなかった。そこには何らかの意味がある、ということを本能的に感じ取ったのだろう。今日という偶然が、僕と君にとっての必然の始まりだった。あるいは、それは僕と君とが出会った時から始まっていたのかもしれないが。
(芸術家が不幸にならなくてはいけない理由なんて、どこにもない)――そう僕は思った。
空は青く青く晴れ渡っていて、君は僕の手渡したレモンを手のひらの上に乗せて、いつまでも飽かずじっと見つめていた……。 ]]>
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=380944
散文(批評随筆小説等)
2023-12-29T14:32:55+09:00
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こうして僕は晴れて君と知人同士の関係になったわけだが、友人関係になったという感情はどうしても湧いてこなかった。実際、君にとって僕は「お客さん」の一人でしかなかったろう。「絵を買ってくれること」が最終目的だったわけだ。僕といっしょに何かをしていこう、という気持ちは君にはなかったに違いない。
そして、言っては良くないのかもしれないが、君には女子力というものが欠けていた。容姿は人並みで、それほど悪いというわけではない。しかし、君の存在はなんと言うか透明すぎるのだ。透明すぎて、人間として接することが出来ない。そんな不確定な雰囲気が君にはあった。これは、他の男であっても同じことを思っただろう……
君と僕との家は近い。平瀬川の河原に行けば、時折は君に会えるだろう。そのことは分かっていた。ただ、仕事の予定を開けてわざわざ河原へ出向く、ということを僕はしなかった。僕の家へは「{ルビ安宅橋=あたかばし}駅」を利用するのが近道なのだが、そこから家へは河原沿いの道を使う方法も、別の方法もあった。
僕はわざとのように、河原伝いの道を避けていた。「君に会いたくない」というわけではない。しかし、君だけが持っている、君だけの世界というのを邪魔したくなかった。季節は初夏で、一面に晴れ渡る日が続いていた。君はやはりスカートの上に直接キャンバスを乗せて、自分の服を汚しながら絵を描いていたことだろう……。そして、時折はイーゼルを斜面に立てかけて。
その日、僕の気持ちが河原へと向かったのはなぜだったろう。あるいは、その日は珍しく曇り空の日だったからかもしれない。平瀬川の河原に行っても君はいないだろう、という予感が僕はしていた。そうすれば、君だけの世界を邪魔することもない。そして、僕は僕自身の世界に浸っていられる……。
しかし、僕の予想は当たらなかった。君がそこにいて、いつも通りに絵を描いていたからだ。そして僕が声をかける前に、君のほうから僕の姿に気づいたようだった。10数メートル離れた場所から、僕に手を振ってみせる。それはやはり、「知人」に対する手の振り方だった。
「あなたがいつお客さんになってくれるか、楽しみなの」
絵筆を止めて、君が言った。
「僕はお客さんにはなれないよ。君の絵を買うお金がないもの」
僕は残念そうに答えた。
「ただ見に来てくれれば良いのよ。今度個展を開くっていったでしょう。個展は一週間続くの。その間に、空いた日があったら見に来て」
「どうかなあ、僕はけっこう忙しいから」
「朝から夕方までやってるんだよ。だいたい10時から、17時くらいまで。少しの時間は作れるでしょう?
「そういうわけにも行かないんだ。夜勤明けにまた夜勤が待っていることもあるし、一日中仕事をしていることもある」
「そう。残念だな。でも、個展を開くのは今回だけじゃないから。家に絵を見に来てくれても良いし……」
「それは無防備すぎるんじゃないかな?」
「無防備? ああ、そういう心配? 安心して。わたし、合気道初段だから」
見かけによらず、そういう特技もあるのか、と僕は思った。合気道初段なら、「その手の」心配をする必要もないだろう。君の部屋にはコンクリート・ブロックという「凶器」もある。それに、君は他人に対して隙を見せるようなタイプには思えなかった。それも、他人を遠ざけてしまう原因の一つだろう。
「今日は雲の絵を描いているの?」と、僕が聞く。
「そう」
君のキャンバスには、一面にグレーの絵の具が塗られていた。しかし、それはたしかに空に見える。命を持って、生きている空に。単純にグレーと言っても、そこには様々な魂が宿っている。薄いグレー。濃いグレー。わざと白い色にしている部分もあった。それは君が目の前に見ている景色そのものでもあり、それを超えたものでもある。
*曇り空2
「雲って言っても色々あってね。入道雲、乳房雲、積雲、層雲。スーパーセルなんていうのもある。スーパーセルって知っている? 台風の小さいみたいなやつで、ものすごいの。一度それを描いて絵にしたら、高く売れたわ。今度インターネットか何かで調べてみて」
空を描く画家だけあって、君は雲の種類にも詳しいようだった。僕はよくは分からないがなんとなく納得出来るといった調子で、君の話す言葉を聞いていた。いつか、君が雲の専門家ではないと言ったことを、僕はひそかに後悔している。
「わたしの話、聞いている?」
と、君が尋ねる。
「聞いていますよ」
わざと他人行儀な口調で、僕は答えた。
(この子と恋愛関係になることは、やはりないのだろう)
と、僕は考えていた。それよりもまず、友人というものになれそうもない。僕と君とでは、根本的に生きる世界が違っていた。同じものを見ていても、僕と君の心に入ってくるものはそれぞれ違う。僕の心に入ってくるのは単なる視覚情報であり、君の心に入ってくるのはそれ以上のもの、あるいは、その内奥にあるものだった。
「君は花を描くことは止めてしまったの?」
僕は、僕が初めて君に出会った時に提示したアイディアについて、たしかめるように聞いてみた。
「花? ああ、青空の絵を描く時には、花を描くこともあるよ。1本だけね。でも、今日の絵には合わないから……」
君の絵には、やはりキャンバスの下の部分に余白がある。曇り空を描いているだけに、それは余計に際立っていた。
「もう色んな絵がそろったわ。朝焼けの絵、夕焼けの絵、青空の絵、曇り空の絵、夜空の絵、虹の絵……。わたし、本当はこういう絵を描いていくつもりではなかったんだけれど……」
「じゃあ、最初は何を描こうと思っていたの?」
「抽象画。わたしのルームメイトも、最初は抽象画を描いてた」
「それはどうして?」
「抽象画は学校の先生に受けるからね。それで2人ともおんなじことをしていたの。素直っていうか、馬鹿みたいでしょう?」
「そうでもないけれど」
「でもね、個展を開いているうちに、売れる絵っていうのはそういうんじゃないんだって、気づいたの。何か人に安心感を与えるような絵、画家を信頼することが出来るような絵、そういうのが今は売れるんだ。だから、わたしは空の絵を描いている。空って、どこにでもあるものでしょう。でも、家の中にはない。要するに、わたしの絵は窓の代わりっていうわけね。あるいは……なんだろう」
「記憶? 思い出?」
僕は思いついたままに口にしてみた。
「そうね。そう。きっと『原風景』よ。いつかどこかで見たことがあるような。そんな記憶の中の景色」
「君は素晴らしい画家だと思うよ」
「ありがとう」
僕は心からの言葉を口にしていたし、君の感謝の言葉も率直なものだった。「それだけに淋しい……」とも僕は思う。
こうした会話を、実は君は何人とない人たちと交わしてきたのではないか、と僕には思えた。現実問題として、その通りだろう。戸外で絵を描いていれば、それに興味を示す人というのは必ずいる。とくに老人たちなどは、世間話もかねて彼女に声をかけることがあったろう。そうして、今と同じようなやりとりを繰り返してきたに違いない。
「あなたは今日は徹夜明け?」
と、今度は君のほうから僕のことを尋ねてきた。
「そうだよ。一番街のほうで店の飾りつけがあった。僕は現場監督を任されていてね……図面とのにらめっこさ」
「あなたの仕事も大変そうね」
「いや、そうでもないんだけれど……応援で来た子たちに指示を出すのが難しい。なかなか分かってもらえなくってね」
「あなたは正社員なの?」
「今はアルバイトだけれど、夏には正社員になることになってる」
「そう。それはおめでとう」
祝福されて喜んで良いのかどうか、僕は迷った。仕事は今よりもキツくなるだろう。正社員に昇進すると言っても、それは名ばかりだ。現に今でも正社員とほぼ同じだけの仕事をこなしている。報酬はわずかに上がるだけだろう。有頂天になっているわけにも行かなかった。
ただ、「ありがとう」と、僕は社交辞令で答えた。
*曇り空3
もし僕が君に恋愛感情を持っていたら、そのころから君は変わり始めていた、ということに気づいても良かっただろう。それは劇的な変化ではない。見かけからは些細な変化に過ぎなかった。しかし、君はその心の奥底の部分で変わり始めていた。それがなぜなのか、今の僕には分かる。しかし、今は言わないでおこう……。
「君の個展はいつからだったっけ?」
話題に困った僕は、なにげないことを尋ねてみる。
「1カ月後の火曜日から、日曜日までだよ。月曜日は画廊は休みだから」
「月曜日は休み、ね」
僕は皮肉っぽく、そんな答え方をした。そして、自分の仕事にはほとんど休みがないことを思った。休日が用意されていないわけではない。ただし、僕の仕事場では24時間を待たずに次の仕事が始まることも多い。休みと言えば、ほとんど自宅で寝ていた。画廊の休日というのは、果たしてどんなものなのだろう……。
「君は時々は休んだりしているんだろう?」
「まさか。画家に休みなんてないよ」
僕は驚いた。芸術家と言えば優雅な生活をしている、と誰もが思う。自分が好きな時間に仕事をし、自分が好きな時間に休むことが出来る、と。しかし、実際にはそうではないらしい。画業に徹していない時でも、その下準備、個展の開催の準備、健康管理のための運動など、しなくてはいけないことは山ほどあった。
合気道が初段だと言ったように、君の生活は外から見た様子に比べて、思いの他ハードなのだった。自分の感受性を総動員するということも、端からは考えられないほど、体力と気力を消耗するものなのだろう。若い画家であればなおさらのことだ。それまでの経験と知識の蓄積で、作品を作るということが出来ない。
「駆け出しの画家っていうのは大変なんだな」
「軌道に乗るまではね。お客さんが何を求めているのかも分からないし。でも、今では少し落ち着いている」
なぜか安堵しているように、君は答えた。その安堵が不安の裏返しだということにも、僕は気づいてあげていられれば良かった。安心感というものは、いつだって何かと引き換えにしなければ得られないものなのだ。君は何かを失った結果、何かを得ることになった。それが今の安堵感だった。
「君と僕とが喧嘩したら、どっちが勝つだろうか?」
「それはもちろん、あなたがよ」
「それもそうかな……」
たしかに、合気道初段の女性と、肉体労働の男性とでは、肉体労働の男性のほうが力が強いだろう。しかし、内面のハードさにおいては、君のほうが勝っているかもしれなかった。僕は君を組み伏せることは出来ても、君は決してそれに屈することはないだろう。僕にはなんとなくそのように思えた。
「もし時間が作れたら、君の絵を見に行くよ」
「ありがとう」
僕がそんな風に約束をしたのは、そこには僕の仕事に対する何らかのヒントも隠されているように思えたからだ。決して、君に対する友情から出た言葉ではなかった。「僕はこの子を信頼していないのだろうか」と、僕は心の中で迷う。
あるいは、僕にとっても君は「お客さん」なのかもしれなかった。君が自分のスペースを持つようになれば、僕はその場のデザインを手がけることになるかもしれない。そんなことも、決してないとは言い切れないような気がした。
僕が、君の精神の世界にまで踏み込んで君を見ていなかったことは、今から思えば残酷なことだったと思う。そのことを僕は悔いているわけではない。ただ、もう少し違った出会いであったら、と思う。もし僕自身も画家だったら? そんなことはあり得なかったが、僕は君に対してある種の同胞意識、仲間意識のようなものを感じていた。
それは、君が僕にとってのライバルであるということも意味していた。それが、僕の感情が友情や恋愛感情に至らなかった秘密の答えだ。僕はただ君を観察していた。それこそ、画家の描いた絵を見つめるように……
*曇り空4
僕はその時、数店の店舗のレイアウトを任されていた。しかし、そこでトラブルが起こった。あるお店の壁にかけるはずだった飾り棚が届かないというのだ。確認してみると、製造元の会社が倒産して、破産手続きを始めたということだった。僕はその後処理に追われることになった。
お店のレイアウトというのは、単純そうに見えて案外繊細なものだ。店の飾りつけ一つによって、客の購買意欲は微妙に変化する。商品を手に取って買いたい、と思わせるレイアウトを設計することは難しい。その部品一つが外れても、客足は遠のいてしまうのだ。お店というのは、商品と同時に夢を売る空間でもある。
クライアントとなるお店と、会社の間を僕は何往復もすることになった。「だからスマホを買っておけって言っただろう」と、社長が怒鳴る。スマートフォンを持っていればどうにかなる、というわけではなかったが、僕は「済みません」と謝った。
結局、お店の西側には丈の高いラックを、東側にはショーケースを配置することで落ち着いた。壁の空いている部分には、ポプリやフラワーポットを吊り下げることで、なんとか店内の様子を落ち着かせることが出来た。中央にあるテーブルは、やや西側に寄せた。これで客の動線は変わってしまう。それは仕方がなかった。
君のルームメイトから電話がかかってきたのは、そんな折だった。それまでに、僕は君と数回会って話をしていた。僕はそれどころではなかったが、彼女の声は真摯だった。彼女は君との同居を止めると言う。僕は返答に窮した。
「いきなりなぜそんなことを僕に?」
「あの子があなたと同居したがっているの。ルームメイトとして……」
「なぜ?」
僕はただただ驚いた。何よりも、僕と君とは知り合ってまだ間もない。友人でも恋人でもない間柄だ。それがいきなり同居人になるということは考えられなかった。もちろん、僕は丁重に断りを入れる。
「それは出来ません。それに今、仕事が詰んでいて、それどころじゃないんです」
「そう。残念だな。あの子はけっこう期待していたんだけれど……」
(期待?)――僕には君の気持ちが分からなかった。知り合って間もない人間と同居する。それも、画家仲間であったら理解出来る余地もあっただろう。しかし、僕と君とでは職種も違う、立場も違う、そして、生活のスタイルも生活のリズムも。そんな君がなぜ僕を求めるのだろうか……
「それより、なぜあなたは彼女との同居を解消することにしたんですか?」
僕はビジネスライクな口調で尋ねた。彼女からの返答はなかなか得られなかった。
「実はね……」
と、君のルームメイトは切り出す。君のルームメイトは女性が好きだった。そして、君は彼女の恋愛対象ではなかった。君のルームメイトは、彼女が好きな女性といっしょに住むのだと言う。すでに引っ越しの手配もしてあるし、君にもそのことは通知済みだということだった。
「それで、彼女はなんて言ったんです?」
「『うん、分かったわ』って」
「それは、言うでしょう。単なる同居人なんだから、あなたを引き留める権利はない。だからって……」
「それに、もう1つ理由があるの」
君のルームメイトによると、最近の君はどこかおかしい、ということだった。端から見て変な行動を起こすわけでもない。言動は今までのままだ。しかし、なぜか内面が変化してしまっているように感じられる。そのことは彼女の絵にも現れている、ということだった。
「それは、彼女が成長しているっていうことじゃないんですか? 画家として」
「それもあるかもしれないけれど、変なの」
「変なの、じゃ分からないですよ。あなたの気持ちはどうなんです?」
「もう、彼女との同居は続けられない」
にべもない答えだった。しかし、その裏にある事情があったことを、僕はまだ知らなかった。君は君のルームメイトに恋をしていたのだ。女性らしい、同性にたいする憧れ、と言ってしまえばそれまでだろう。しかし、君は確実に女性の同居人を求めていた。それが僕との同居を望むという……何にしても不可解だった。
*曇り空5
「僕にも、ちゃんと自分の家があるんですよ? たとえ一緒に住むとしたって、その解約期間や引っ越しの準備というのもある。あまりにも勝手すぎませんか?」
クライアントと話をする時の口調で、僕は君のルームメイトに抗議をしていた。こういう時、僕は自分が冷たい人種だと思い、芸術家というのがそれとは真逆の温かな感受性を持っていることを強く感じる。ビジネスライクな雰囲気は、君のルームメイトにもあった。もしくは、彼女が君が道を踏み外さないための重石になっているのかもしれなかった。
「彼女から直接話があれば、考えます。でも、僕から言うことは何もありませんよ」
「そう。ただ、個展には見に来てほしいって言ってたわ」
「行ければ、行きます」――あいかわらず自分の言葉は冷たい。そこには少なからず、君への反感も混じっていただろう。画家として成功しつつある君への嫉妬。それを醜い、とは僕は考えなかった。僕と君とはライバルのようなものだ。どちらが先に成功するか。どちらが足を踏ん張って生きていくことが出来るか。そんなことを考えさせるような力が、君にはあった。
ビジネス上の問題に加えて、私的な問題に捕らわれることを、僕は嫌った。今の自分にそんな余裕はない、と思った。しかし、僕は僕自身の気持ちには気づいていなかった。心のどこかでは、「君の同居人になっても良い」と考えていたのだ。そうでなければ、その後の僕の行動への説明がつかない……
そんな折、僕は地域メディアの冊子に載っている君の記事を目にした。というのは、僕が開店を手伝った店の広告記事がその冊子に載っていたからだ。つまり、それは偶然、それはたまたまというわけだっだ。そこには、こんなタイトルの記事が書かれていた。
『青空と雲が映し出すもの 余白が示す絵のカタチ』
そこには、「正装」姿の君の写真もあった。僕が以前見かけた、黒いワンピース姿の君の写真だ。そして、その記事の中で君はインタビュアーからのインタビューに答えていた。
「芸術論」とは言わないまでも、君が何を言おうとしているのか、僕には半分も理解出来なかった。きっと、絵の愛好家であれば何かしら思うところもあるのだろう。
その冊子を、僕は鞄の中にしまった。きちんと家に持っていくつもりだった。
急転直下の出来事があったのは、その直後だ。君のルームメイト、いや、元ルームメイトから再び電話がかかってきた。
「あの子が事故にあったの!」
涙声で君の元ルームメイトは言った。
「なんですって?」
驚いて僕も答える。君の個展は3日後に迫っていた。つまり、それは5月中旬の土曜日のことだった。
「なぜ、あなたが知っているんです? そういう連絡って、普通家族に行くものでしょう? 彼女からあなたに直接連絡が来たんですか?」
「違うの。あの子の携帯電話の連絡帳にあったのが、わたしとあなたの番号だけだったらしいの」
「それで、今彼女は外科に?」
「入院しているのはたしかだけれど、精神病院になの……」
君が載っていた冊子の写真。それを見た時にも、僕はどこかがおかしいと気付くべきだった。事故は大したことはなかったらしい。それは分かっていた。しかし、なぜ外科病棟ではなく精神科病棟に入っているのだろうか。何かがおかしい、何もかもが。
「それで、あなたは彼女に会いに行ったんですか?」
「いいえ、面会謝絶ですって。家族しか会えないらしくって」
「それで、家族はどうしているんです?」
「家族とはまだ連絡がついていないらしいの。彼女、記憶障害になっているんだって」
状況がうまく飲み込めなかった。君は精神科病棟に入院していて、記憶障害になっている。そして、家族とはまだ連絡が付いていない。病院側が分かっているのは、僕と君の元ルームメイトの連絡先だけ。それよりも何よりも、どんな状況で彼女が事故に巻き込まれたのか、それが気がかりだった。本気で他人のことを心配する、というのはこういうことなのだろう。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-27T16:42:30+09:00
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初対面の君とあんなにも長く話し込んでしまったことが、僕にとっては意外だった。でも、案外芸術家というのは皆そういうものなのかもしれない。自分以外は皆お客さん、そういう立場で君も絵を描いていたのかもしれない。
ただ、気になることが一つだけあった。君は別れ際に、毅然とした声でこう言った。
「でもやっぱり、わたしの絵には余白が必要なんだ。これは変えられないよ」
「うん。君自身のやり方を貫くと良いと思う」
僕はなんとなくそう答えた。そう答えるのが良いような気がした。それが例え間違っていることでも。
芸術家には芸術家のプライドがある。しかし、それは一般人であっても同じだ。誰にでも、超えられない一線、超えたくない一線というものがある。しがない生活を送っている僕にも、そういう種類の感情はあった。例えば、君との関係は恋愛関係ではない、これは今でも信じている。僕は初対面の君に対して、恋をしたのではなかった。
根が生真面目すぎるせいかもしれない。僕は「こう」と決めたことは譲らない性格だった。例えば、任された仕事は疎かにしない。なので、先日のように徹夜仕事をやらされてしまうこともある。誰かが欠勤した。その穴埋めを頼む。そんなことを言われることはしょっちゅうだった。
そのころの僕には、決めていることが一つあった。それは毎日レモネードを飲むということ。べつにその飲み物が好きだったわけではない。これは僕らしくないかもしれないが、その習慣はなんとなく始まった。そして、今でも続いている。
僕の仕事はいわゆる肉体労働なので、熱がある時でも無理して出勤しなくてはいけないことは往々にしてある。というより、風邪を引いても病院に行く暇などはなかった。一度休んでしまえば、職場での信頼が失われてしまう、という事情もある。生活が不安定な立場にあるのは、君と同じだった。
君と出会った日は、いわゆる「ダブル」というもので、昼勤を終えた後に続けて夜勤も行う、そんな日だった。だいたい朝の8時くらいから仕事を始めて、仕事が終わるのもやはり朝の8時くらい。通勤の時間を含めれば、30時間くらいは起き続けていることになる。そんなことは過去にも何度となくあった。
やはり、僕が僕自身のことを話すのは苦手だ。それは、話が大げさになってしまわないかと危惧するせいだろう。
その日の僕も、ダブルの仕事を終えた後だった。夕方には続けて夜勤の仕事が待っているはずだった。しかし、僕は39度近い熱を出して起き上がることが出来なかった。
ミニマリストを気取っているわけではないが、僕の部屋にはほとんど物がない。食事も外食かコンビニの弁当で済ませていた。ただ、冷蔵庫の中にはレモンが1個だけ入っていた。それはなぜだったろう。そのころに「レモン」という曲が流行っていたせいかもしれない。スクイーザーも持っていないのに、僕はスーパーで見かけたレモンを1つだけ衝動買いしてしまった。
しかし、それは僕にとってはまさに幸運だったと言って良いだろう。さっき言ったように、僕は39度の熱を出して起き上がるのも困難だったからだ。僕は這うようにして台所に行き、冷蔵庫の中身を調べた。食べられそうなものは、そこには入っていなかった。1個のレモンの他には。災害時の非常食なんかも、僕は用意してはいない。
熱に火照った体は、動くたびにあちこちが痛んだ。外へ買い物に行くことなど、出来そうになかった。
(夜には仕事があるのに……)
と、僕は思う。休むことは僕のプライドが許さない。「体力以外に僕に取り柄なんてあるだろうか」と、そのころの僕は考えていた。ただ、僕の体の火照りと痛みは、僕だけの力ではどうにも出来そうになかった。医者へ行くべきかどうか、僕は迷った。しかし、今はその体力さえない……。
*レモネード2
食べられるものがレモン1個しかない、というのは難問だった。日ごろから栄養管理をしておけば良かった、と僕は後悔する。コーヒーなんかを飲めば、体は余計に衰弱しそうに思えた。気力でなんとかなる状況ではなかったのだ。
僕は僕自身の体力を過信していた。健康な人間でも時折タガが外れたように体調を崩してしまう、そういうことがあるのを僕も知らないわけではなかった。しかし、僕は日々の仕事に忙しく、そんなことはすっかり頭の中から抜け落ちてしまっていた。
(レモン1つでどうしろと?)と、僕は思う。
先に書いたように、僕の部屋の中にスクイーザーはなかった。僕はアルコール類も飲まない。それなのにレモンを買ってきてどうするつもりだったのだろう、と思うと、途端に僕は笑えてきた。
(まるでこの時のために買ってきたおいたかのようだ)
などと、のんきなことを考える。その間も、体は熱と痛みで火照っている。
スクイーザーがなければ仕方がなかった。僕は包丁を使ってレモンを薄い輪切りにしていく。そして、これも部屋の中に1つしかないコップに、渾身の力を込めてしぼっていく。コップの底には、5ミリメートルほどの高さにレモンの果汁がたまった。
僕は力を使い果たしたかのように、コップに水を注ぎこむ。そして、その手製のレモネードを一気に飲み干した。砂糖などで甘み付けをする、という考えはその時の僕にはなかった。何よりも、砂糖などを入れれば吐き出してしまいそうだった。
全身から汗が噴き出す。僕は倒れ込むようにしてベッドに横になる。そうして、眠ったのはどれくらいの時間だったろう。多分、20時間ほどは眠り続けたのではないかと思う。僕にとっては何年かぶりの病気――風邪だった。
職場からは携帯電話に留守電が入っていたが、電話が鳴ったことにも僕は気づかなかった。ただ、死んだように眠っていた。翌日に目を覚ますと、一番に職場からの電話が入った。
「おい、どうした」
と上司が言う。「やっとつながったよ……」と、背後の同僚に声をかけているのが耳に入った。
上司は怒っているのではなさそうだった。僕が日ごろから無理を聞いてくれることを、彼も知っていたからだ。突然に連絡がつかなくなって、彼はごく普通に心配をしてくれていた。というより、「僕が死んでしまったのではないか」と、職場の全員で焦ったそうだ。そういうことを、僕は後で職場の同僚から聞いた。
「済みません、起きられなくって……」
と、かすかに僕は答える。熱は引いているのが分かった。しかし、全身のけだるさはそのままだった。
「電話したの、知ってたか?」
「知りませんでした。済みません」と、何度も謝る。
「いや、良いんだって。穴埋めは利いたから」
僕は上司の優しさに感謝するとともに、再び気を失いそうになった。しかし、そういうわけにも行くまい。
「今日は出られるか?」
「出ます」
と、僕は答えていた。
「勢いだけでやってるとそうなるから、気をつけろよ」と、上司。「ちゃんと食ってるのか?」
「昨日は何も……」
「そうか」――どうやら、彼にもそうした経験があるようだった。若い時には誰もが無理をするものだ。若い僕が言うのは変だが、上司は様々な仕事を経験してきただけあって、人生の山や谷を見尽くしてきていた。若い部下が病気で倒れることを、無下に罵倒してみせたりはしない。
その日の仕事はなんとかこなすことが出来た。結局、僕が穴を空けたのは1つのシフトだけだった。僕の後輩が代わりに仕事を受け持ってくれたらしい。そしてその日が、僕がレモネードを飲むことを日課にした最初の日だった。それは、僕にとってはお守りかおまじないのようなものでもあったろう。幸い、その日以来仕事を休んだことはない。
*レモネード3
僕が君と出会った日にも、僕は自分の部屋に帰ってきてレモネードを飲んだ。今ではしっかりとスクイーザーも用意してある。そして、ベッドに横になる。その時ふと、僕はあることに思い当たった。
(お互いの名前を聞いていなかった)
ということだ。
(こんなことは芸術家の世界ではよくあることなんだろうか?)
と、僕は悩む。
(僕は余白……。僕は彼女にとっての余白だったのだろうか)
しかし、僕は君にとっての余白ではなかったらしい。というのは、2度目に君に会った時にも、君は僕のことを覚えていたからだ。
運命がそう決めたのだろう。僕が君と2度目にあったのは、街中でのことだった。僕と君の家がどうやら近くにあるらしい、ということはなんとなく僕も気づいていた。だから、もう1度出会えるのであれば、やはり平瀬川の河原でだろう、とそう思っていた。しかし、予想というのは常に裏切られるものなのかもしれない。
{ルビ国分=こくぶ}通りというのは、S市のほぼ中央にある通りだ。ターミナル駅からは離れているものの、この街では一番の繁華街になっている。昔は色町だったそうだが、今ではファッション雑貨のお店や飲食店などが立ち並んでいる。若者向けの街だと言って良かった。
君はその同伴者といっしょに、国分通りを南に向かって歩いていた。つまり、僕のいるほうへ。その同伴者というのは、どうやら君のルームメイトらしかった。
君の姿を見かけた僕は驚いた。君は前回会った時とは違って、フォーマルな感じの黒いワンピースに、カーディガンをはおっていた。それがどうやら、君が正装する時のいでたちらしい。後で話してみて分かったことだが、君は今度個展を開く画廊の下見と契約に行っていたのだった。
フォーマルな格好をしていても、君の様子は子供っぽく見えた。それは、君の同伴者がいかにも大人っぽい様子をしていたからかもしれない。彼女はビジネス・カジュアルにパンプスを履いていた。いかにもOLという感じがする。どうやら、君とそのルームメイトとは同業者、つまり画家というわけではなさそうだった。
君のほうでも僕を見て驚いたのだろう。
「あら、この前の……」
と言った。君は横を向いて同伴者と顔を合わせる。
「この人はね……」
「ああ、あんたが荷物持ちをさせたっていう」ルームメイトは淡々と答える。
「えっとね、この子は△△ちゃん……それで、こちらは」と、言った後で君は悩む。
どうしても僕の名前を思い出せないのだろう。それはそうだ。僕たちはお互いに名乗りあっていなかったのだから。僕は思わず噴き出した。
「〇〇、もしかしてこの人の名前知らないんじゃないの?」
「そうかもしれない。そうなのかなあ」
3人は思わず笑った。
「僕は✕✕。君は〇〇って言うんだね」
2人の言葉を引き取って、僕が言った。それが初めて、僕と君とが名乗りあった瞬間だった。僕の中に、君という人間のイメージが広がっていく。名前というものは大事だ。
僕はやはり夜勤明けで、君は北山通にある画廊からの帰りだった。国分通りを少し進んだ先には、マルエツという書店がある。同伴者と画廊へ行った帰り、君はそこで画集などの本を漁るつもりでいた。ところへ、僕が偶然通りかかったというわけだった。僕はと言えば、どこかのファーストフード店にでも入って、食事をするつもりでいた。
「ねえ、せっかくだから」と、君が言う。
「あなたにお供してほしいみたいだよ」と、ルームメイトの女性。
「良いよ。今日も僕は午後は暇だから」
僕は芸術家たちの馴れ合いに慣れていない。初対面で話をしたり、家までついて行ったり、2度目でショッピングにつきあう、そうした経験は今までなかった。しかし、そうしても良い、という気分に僕はなっていた。やはり徹夜明けというのは、大胆になったり、寛大な気持ちになる。
*レモネード4
1つだけ気になったのは、君の同伴者がなぜOL風の格好をしているのか、ということだった。画家の道は諦めてしまったのだろうか。僕は尋ねてみる。
「あなたは絵を描かないんですか?」
「ああ、あたしは止めちゃったの」
君のルームメイトはそっけなく答えた。芸術家になる道というのは、そんなに簡単に諦めてしまえるものなのだろうか、と僕はいぶかった。詳しく聞いてみると、今は会計の勉強をしているということだった。すでに簿記1級の資格は取ってある。将来は公認会計士になるつもり、と彼女は答えた。
僕が君のルームメイトと話している間、君はずっとにこにこしていた。自分が中心人物になりたい、という性格ではないらしい。そのことは僕にとっては意外だったけれど、ほっとした。この前のようなペースに巻き込まれては困る、とも思っていた。3人で歩いている間、君はずっと無言だった。
マルエツという書店に入ると、君はまっすぐに洋書が置かれている本棚へと向かっていった。そこには、海外から輸入された画集が並んでいる。国内版の画集では見ることが出来ない絵も、洋書であればある程度先んじて見ることが出来た。
僕は、画家と言えばゴッホやルノアールの名前しか知らない。しかし、君はジャン=ピエール・カシニョールやベルナール・カトラン、レオノール・フジタといった名前を挙げていく。カシニョールくらいなら、どうにかその名前を聞いたことはあった。しかし、その他の名前は僕が初めて耳にするものばかりだった。
その中でも、君はベルナール・カトランの絵がお気に入りらしかった。画集のページを指さして言う。
「この人の絵ってね、見かけによらず厚塗りなの。サイズも大きいし、構図がシンプルなのに大胆で荒々しいんだ」
その顔はほころんでいた。「いつか自分もこんな絵を描いてみたい」という顔つきだった。
「〇〇って、大判の絵は描かないよね?」
「材料代が高くつくから……」
君は恥ずかしそうに言った。キャンバスのサイズで言えば、君の絵は10号から15号くらいまでの絵が多い。大きなものでも、20号を超えるものはそう多くはなかった。このキャンバスのサイズに関する知識は、僕がもっと後になってから学んだものだ。その時にはまだ、30センチメートルとか40センチメートルとか、通常の単位でしか大きさを測ることが出来なかった。君によれば、ベルナール・カトランは2メートルを超えるくらいのサイズの絵も多く描いているということだった。
「ねえ」と、君は言う。
「今、この本棚がバーンってバクハツしたら、面白いと思わない?」
「何言ってんの、〇〇?」
「いやさ、この本棚がバクハツして、画集から絵の具が飛び出して、それが店内にばらまかれるの。面白いと思わない?」
何が面白いのか、僕には分からなかった。画集が爆発しても、決してそこから絵の具が飛び出してくるわけじゃない。ただ、印刷物が木っ端みじんになるだけだ。芸術家の想像力というのは、こんなものなのだろうか、と僕は不思議がる。
「この子っていっつもこういうことを言い出すんだよねえ」
と、君のルームメイトが言った。彼女も僕と同意見らしかった。君が今言ったことは、あまりにも突飛だ。
「2人ともツマンナイなあ。芸術って、生きているんだよ。この本の中のインクがさ、突然に命を持って、絵の具に変って、わたしたちの顔が絵の具まみれになって……そういうのって、楽しいと思うんだ」
「だからわたしは絵を止めたの。絵描きをやっていると、どんどん心が絵が侵食されていくから」
「それで諦めたら駄目なんだよ。その先へ行かないと……」と、君。
「あんたの絵は売れると思うよ。だって、絵に侵食されているから」
君のルームメイトは、どこか冷めている感じがした。僕は、そのそっけなさだけは気に入らなかった。せっかく知り合ったから、ではないが、僕は君の画業を応援したかった。
*レモネード5
僕の勤めているのは、インテリアやエクステリアを受注して受け持っている会社だった。と言っても、主に請け負っているのは店舗のインテリアなどで、お店の壁紙を張ったり、ショーケースの陳列を考えたりする仕事だと思ってもらえれば分かりやすいだろう。その他に、デパートのイベントのデコレーションや、クリスマスツリーの飾りつけなんかを行うこともある。
その日も、あるお店の内装を手がけてきた帰りで、僕はまだ食事を取っていなかった。マルエツ書店のフロアの奥には、茶源堂という喫茶店がある。僕たちは3人でそこに入ることに決めた。君と君のルームメイトはすでに食事をしてきたらしく、アイスティーとホットコーヒーを注文した。僕は、腹の足しになるものを食べたくって、ミックスサンドとレモネードを注文する。
「レモネードが好きなの?」と、君。
「まあね。癖になっているんだ」
「もしさ、レモネードの雨が降ってきたりしたら面白いよね」と、はしゃいで君が言う。
それに対して君のルームメイトはクールだった。
「あんたはまたそういうことを。あんたの場合、レモネードというよりレモンサワーでしょう?」
「わたし、お酒飲みじゃないよ。もしくはさ、蛇口をひねったらレモネードが出てきたり……」
「そういう突拍子もないことはよく考えつくよね」
「何よ、あなたはビジネス・オンリーでしょう?」
「もう芸術の世界からは離れたの」
単純な馬鹿話、と言っても良かった。それでも、2人の会話は芸術家の会話、という感じがした。あの線が1ミリメートルずれていた。もう5ミリメートルくらいの幅を出せば良かった、などという話を聞いていると、僕の仕事にもつながる考え方、物の見方だと思えてきた。そういうことであれば、僕も話題に乗っていけるかもしれない。
「そう言えばさ、『根なし草』ってあるじゃない? あれって、本当に根のない草だったら面白いと思うんだ。夜になると、こっそりと後ろを追いかけてくるの。枝分かれした茎の部分で歩いてさ……」
「今度はオカルト?」
さすがに僕は苦笑した。どうやら、芸術家のアイディアというものは尽きないものらしい。「無尽蔵」という言葉を僕は思い出していた。そう。芸術家には無尽蔵な想像力がある。それに比べれば、僕のしている仕事に必要な想像力などたかが知れていた。僕は芸術家にならなかった自分を幸運だと思った。とても僕の神経では耐えられる仕事ではなかっただろう。
僕はサンドイッチを口に運ぶ。君のアイスティーとルームメイトのホットコーヒーは、ほとんど減っていないようだった。2人とも話すことに夢中になっている。それはどこか恋する者同士の会話を思わせる。次から次へと話題が現れては消えていく。それに対して、君のルームメイトは的確に反応していく。2人の信頼関係を僕はうらやんだ。
「そう言えばさ、わたしたちアドレスの交換をしていなかったじゃない?」
「アドレスって、メールアドレスのこと?」
「そう」
「お互いに名前すら言わなかったもんね」
「今度個展に来てよ。だから連絡先を教えてほしいんだ」
「良いよ。でも、君の絵を買うお金は持っていないかもしれない」
「良いんだよ。そうやって口コミが広がれば、絵を買ってくれる人もだんだんに増えていくから」
(そういうものなのだろうか)と、僕は思った。
僕は2人にメールアドレスと電話番号を教え、2人分のそれを自分の携帯電話に記録する。スマートフォンは持っていなかったので、LINEの交換をすることは出来なかった。2人とも、なぜかそのことを残念がっている。どうやら、普段の会話はLINEを使って行っているらしい。僕は僕なりの想像力で、そう考えることにした。
茶源堂のレモネードは甘かった。おそらく、蜂蜜か液糖が入っているのだろう。僕はきっと、家に帰ってから口直しをしなくてはいけないだろうと思った。しかし、その店のレモネードの味は、僕にとってはずっと忘れられないものになりそうだった。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-26T17:04:51+09:00
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豊饒な広い土地も
このエメラルドの光が囲む
この胸ほど広くはない
――エミリー・ディキンスン
*青空1
それは、空から1個のレモンが落ちてきたようなものだった。僕はそれをつかんで手のひらの上に乗せる。でも、皮を剝くことは出来ない。ただ、手のひらの上の1個のレモンを見つめていることしか出来なかった。そして、そして……
* * *
僕たちの青春はそんなふうに過ぎていった。「そんなふうに」なんて書けば、読み手の誰もが戸惑ってしまうだろう。「そんなふうに」とは何だろう。それに、この手記を書いても読むのはきっと君だけだろう。君は僕の言葉をどう受け止めるだろうか。
僕たちの過ごした時間を、「どんなふうに」と言うことは出来ない。僕は比喩が苦手だからだ。ただ、あったことをそうだったと書くことしか出来ない。文章を書く才能は、僕にはないだろう。これは不幸なこともでもあり、幸福なことでもあるだろうと思っている。
僕が初めて君に会ったのは、平瀬川の河原でのことだった。君は土手に座って絵を描いていた。そのかたわらには、画材やらイーゼルやらが転がっていた。君はキャンバスを直接スカートの上に乗せて、その上に青や白の絵の具を乗せていった。
僕は君のことが気になった、と書けば、それは本当でもあり嘘でもあるだろう。僕はその日は徹夜明けで、そのことが僕を寛大な気持ちにも大胆な気持ちにもさせていた。僕はふと君のことを目にとめた……それが「事実」だ。
事実以外のことを書くのは難しい。僕は決して君に恋をしたわけではなかったし、それが僕たちの関係を「そんなふうに」と書かなくてはいけない理由でもある。ただ、しばらくの間僕は君の後ろに立って、君の描く絵を見つめていた。
君の描く絵は変わっていた。そこには、空しか描かれていなかったのだ。
(空だけの絵?)
と僕は思う。
(いやいや、まだ未完成なんだ)
と僕は思い直した。しかし、実際には最初の勘のほうが当たっていた。君の描くキャンバスの下の部分は、布地が着色もされずにそのまま残されていた。後で知ったことだが、君はそんな絵ばかりを描いていたのだった。
徹夜明けということもあり、疲れていた僕は君から2メートルくらい離れた場所に座りこんだ。そしてやがて、土手を枕にしてうたた寝をしていた。数分か十数分、くらいは眠ったのだろうか。
「ああ、もう。やってられない!」
と、君は突然声を出した。僕は驚いて目を覚ます。何が起こったのか、誰に話しかけたのか、呆けた頭の中では即座に理解出来なかった。でも、それはどうやら僕を意識して発した言葉らしい、ということにはすぐに気がついた。
「邪魔しちゃった?」と、僕は君に声をかけた。
「違うの。集中出来ないのよ」――「空が青すぎて」
(意外なことを言う子だな)
というのが僕の感想だった。君の言葉は、「太陽がまぶしすぎて殺人を犯した」と言った、ある小説の主人公のように唐突で理不尽なもののように思えた。「青空を描いているのなら、空が青すぎて困ることはないじゃないか」と、僕は思う。そして、
「空の絵を描いているんだろう?」
「そうよ。空の絵を描いているの」
「じゃあ、空が青かったら良いじゃないか」と、僕。
君は僕の放った言葉に、なんだかあっけにとられたようだった。もちろん、それはそうだ。空を描いているのに、空が青くて具合が悪いはずがない。君が言ったのは、そういう意味ではなかったはずだ。いや、そういう心理からではなかったはずだ。君は何かの言い訳を求めたかったのだ。
僕は君に近づいていって、その隣に座った。もちろん、普段はそんなことはしない。徹夜明けの大胆さが、僕にそうさせたことだ。それでも、君は僕を不快に思うような素振りは見せなかった。それだけ絵に集中していたのだろう。
*青空2
もちろん、戸外で絵を描いている画家なら、その絵を間近で見られることはよくあることなのかもしれない。それは同年代の人物のこともあれば、子供の場合もあり、老人が絵を覗き込む場合もあるだろう。そこにあるのは純粋に絵に対する興味であって、決してやましい思いではない。
僕の場合もそうだった。僕は、君がなぜ空しか描いていないのか、なぜキャンバスの下の部分を地のままにしてあるのかが気になった。これから余白が埋められていくのだろうか。それなら、空は背景として良いかもしれない。でも、絵の具が混じりあってしまわないのだろうか。色がにじんでしまうのでは? とも絵の素人である僕は思った。
だから、僕はわざと二番目に思いついた考えを元にして君に聞いてみた。
「なぜ、空以外の部分を余白にしているの?」
「わたしが『空』しか描かない画家だからよ」
それが君の答えだった。君の言葉は毅然としていた。プロ意識のようなものが、そこにあったと言って良いかもしれない。
「空しか描かない?」
「そう」
「木や地面は描かないの?」
「家や建物も描かないわ。ただ、空とスカイラインだけを描くの。わたしの絵には余白が必要なの」
「でも、それじゃあ画面が淋しすぎるんじゃない?」
君は笑った。
「空って言ってもね、色んな空があるの」
僕は納得した。納得せざるを得なかった。それが画家の言葉だったからだ。僕は決して芸術家ではない。そして、芸術を理解することも出来ない。君だけのポリシー、君だけの戦略、そういったものがそこにはあるはずだった。いわゆる、ブランディングというものだ。
君は何枚か描きかけの絵を見せてくれた。それは、川向こうのビルやマンションが余白になっているもの、河川敷の木が余白になっているものなど、必ず絵の具の塗られていない部分があった。しかし、それを実際の風景と見比べてみると、驚くほどの正確さで描かれているのが分かった。
君の絵を見ると、そこにないものが、まさしく存在しているかのように見えるのだ。
一面に雲が描かれている絵もあった。僕は尋ねてみる。
「これは何ていう雲?」
「さあ。高層雲かな。それとも……層積雲、かな? よく分からない」
「そっか。君は雲の専門家じゃないものね」
やっと他愛のない話題を振ることが出来た、と僕は思う。
眠気はいつしか吹き飛んでいた。そして、絵を描いている君の様子が気になり始める。なぜ、キャンバスを直接スカートの上に乗せて描いているのだろう。絵の具は服についてしまわないのだろうか。僕の視線を、君も敏感に受け止めたようだった。
「ああ、これ? 他に服はいくつもあるから。それに、街へ行く時にもこの格好をしていくわけじゃないし」
実際、君のスカートやブラウスには、油絵の具がところどころにこびりついていた。絵を描く時専用の服であれば、スモッグなどのほうがふさわしいのではないか、とも僕は考えた。僕は今でも君の考えることがよく分からないが、それが君なりの無造作なやり方だったのかもしれない。その代わり、君の体からは淡いフレグランスの香りがしていた。
「やだなあ。こんな風に人と話すことって、滅多にないんだ、わたし。同居人を除いたらね……」
(同居人がいるのだ)と、僕は思った。君は「恋人」とは言わなかった。としたら、その同居人というのは女性なのかもしれない。ただ、それでも僕は君に対して恋愛感情のようなものは抱きそうにない、と考えていた。僕とはあまりにも生きる世界が違っていそうに思えたからだ。
「君の同居人っていうのは、家族?」
「違う。ルームメイト」
僕はなぜだかほっとした。君が引きこもりではない、と感じられたからかもしれない。こんな性格では、多分家族の中からも浮いてしまっているだろう。他に君のことを受け止めてくれている人がいる、ということに僕は安堵を感じていた。
*青空3
そうこうしているうちに、君の絵はひと段落したようだった。
「あなた、これから暇?」
と君が言う。僕はいぶかしんだ。徹夜明けで、今日これからの予定はない。しかし、初対面の僕をどこに誘おうと言うのだろう。僕に対して一目ぼれ、などということは君に限っては絶対なかった。現に、今も僕と君とは恋愛関係ではない。だとすれば……
「ちょっと、これを持ってくれる」
と言って、君は君の横にころがっている、2つに割られたコンクリート・ブロックを指さした。僕は、ぎょっとした。しかし、それが何なのかはすぐに分かった。多分、斜面にイーゼルを立てる際に、その土台としてコンクリート・ブロックを使っているのだろう。そのことを君に問いただしてみると、僕の考えた通りだった。
「いつもは買い物袋に入れて来るんだけれどねえ……、今日は途中で破れちゃって」
と、君は破れたビニル袋を僕に差し出してみせた。
(意外と体力勝負なんだな、画家というものは)
と、僕はのんきに考える。
「つまり、それを僕に持ってほしいっていうこと?」
「そう。家まで運んでくれないかなあ。ちょっと困っていたところなんだ」
(それは困るだろう)と、僕は思う。君の荷物は何枚かのキャンバスにイーゼル、画材。それだけでも両手がふさがってしまう。コンクリート・ブロックを手に持つ余裕はないだろう。ビニル袋が必要であれば、近所のコンビニで買い物をすれば済む話だったが……。これも君の性格ゆえなのかもしれなかった。
(実はこの子は誰とでも親しく出来る人間なんじゃないか)
僕はそんなふうに結論した。「それにしても、荷物持ちか」――と、僕は思う。
徹夜明けの僕が両手にコンクリート・ブロックを抱えている、というのは見た目からしても間抜けな格好だった。それが、様々な画材を抱えた君の後をついていく。まるで、変質者が女性を撲殺しようとしてでもいるかのようだ、などと僕は妄想する。
君の家は案外近くにあった。僕はほっとする。
「この川辺の風景が好きで、友達と引っ越してきたんだ」
と、君は言う。
「せっかくだから、お茶でも飲んでいかない?」
家を見ただけで辞すつもりでいた僕は、一瞬ためらった。それでも、君の誘いを断るのも悪いような気が僕はしていた。君がルームメイト以外と話すのは久しぶりなのだろう、なぜか僕にはそう思えた。
君がルームメイトと住んでいるという部屋は、キッチンとダイニングを含めて3部屋あった。
(意外に広いんだな)と、僕は関心する。たしかに、自室をアトリエにするなら、それくらいの広さは必要なのかもしれなかった。僕は、ルームメイトというのもきっと画家なのだろう、と一人で想像していた。その想像が間違っていたことを、後で僕は知ることになるのだが……。
ダイニングだけで遠慮するつもりでいたところを、君は僕を自室まで招き入れた。要するに、君のアトリエだ。そこには、キャンバスから外されて丸められた絵が何十枚とあって、大きな段ボール箱の中にしまわれていた。「絵っていうのは、こんなふうに取っておくものなんだ」と、僕は関心する。
何よりも驚いたのは、壁にかけられている2枚の絵を見た時のことだ。それは、君と君のルームメイトの肖像画らしかった。君を描いたほうの絵は、つまり自画像というわけだ。それらの絵は写実的で、ところどころに印象派風の技巧が使われていた。当たり前のことなのに、「こんな絵も描けるんだ」と、僕は思ってしまう。
「これ、写真みたいだね?」と、僕は言う。
「ああ、それは昔に描いたものだから」と、君。
「今は空の絵だけを描いているの?」
「ほとんど、ね。他の絵も見てみる? いや、その前に紅茶だな。ちょっと待っていて」
そう言って、君はキッチンへと立っていった。
*青空4
「これは荷物持ちをしてくれたお礼」
と言って君が差し出したのは、アッサムティーとレモン風味のチーズケーキだった。
「本当はルームメイトと食べようと思っていたんだけれど……まあ、許してくれるよね」
そう言って、バツが悪そうに微笑んで見せた。部屋の中に1つだけあるガラス製のテーブルの上には、絵画雑誌やらデザイン関係の雑誌やらが雑然と置かれていて、僕は直接ティーカップを手渡された。君は、それらの雑誌を床の上に無造作に重ねていく。かろうじて、チーズケーキの皿と紅茶を置く部分だけが出来て、君はにっこりと微笑む。
「これは何の紅茶?」と僕は聞く。
「アッサムティー……安いから」と、君。
僕は、正直悪いことを聞いてしまったような気になった。紅茶と言ってもいろいろな種類がある。その中でもアッサムティーはとくに安い。だいたいダージリンやセイロンティーの半額で買うことが出来る。紅茶に詳しくない僕は、ただ君の淹れてくれた紅茶を美味しいと思った。もちろん、その日は特別に疲れていたからかもしれないが。
(紅茶にチーズケーキ。案外普通の生活をしているんだな)と、僕は思った。
君は、自分の描いた絵を時折画廊に売ることで生計を立てていた。それはわずかばかりの額にしかならなかったが、つつましい生活をしていくには足りた。その他に画廊を借り切って個展を開くこともあったが、レンタル料金や画材代くらいにしかならない、と君は説明してくれた。生活費で足りない分は、離れて暮らしている両親が仕送りで補ってくれている。
「絵って、買ってもらえたりするの?」と、僕は勝手なことを聞く。
「もちろん。それじゃなきゃ、画家なんていう職業はなりたたないでしょう。わたしはまだ駆け出しだけれどね……」
「君の絵をもう少し見せてくれないかなあ」と、僕。
壁に掛けられているのは、先ほど見たのと同じような、ただ青空が描かれたシンプルな絵ばかりだった。そして部屋のあちこちにも、同じような絵が立てかけられている。「まだ描き切っていないものだろうか」と、僕は考える。
「そうね。以前に描いたものなら……」
それは、「以前に描いたものなら完成している」という意味だったろう。君は、部屋の隅に置かれている段ボール箱に近づいていくと、そこから何枚かの絵を取り出し始めた。「青空しか描かない画家」という僕の想像を、それらは裏切るものだった。
朝焼け、夕焼け、夜空。同じ昼空を描くにしても、青や白だけではない。時には群青、時には紫、時には緑の絵の具を使って、君は「空」という大きな題材を描き切っていた。スカイラインの下が余白になっていることは、どれも同じだったが、それぞれの絵にはそれぞれの個性があった。白い雲の間から雲間光が差し込んでいる絵もあった。それは天使の降臨のようにも感じられる。
「どう?」
「素敵だと思うよ」
「もう少し何か感想はないの?」
「君は『空』を描く画家として有名になるかもしれないね……」
「そうだと良いんだ。今は個性的な絵じゃないと売れないから」
と、悩んだように君が答える。壁にかけられている二人の肖像画を見れば、君がその他の絵も描けることは間違いなかった。一時は抽象画に手を出したこともあるんだけれど、と君は言った。しかし、結局は「空」という題材に落ち着いた。「空」はいつでもそこにあり、「空」はいつでも変化している、というのが君にとっての理由だった。
「つまり、『空』は君にとっては手につかめないものの象徴っていうこと?」
と、思い切って僕は尋ねてみる。君は、
「そうかなあ。そうかもしれないけれど……」
(何を悩んでいるのだろう)と、僕は思う。
「今は、『この絵はこの人間になら任せられる』っていう、そういうのが必要なの。そして、わたしは題材として『空』を選んだ。これは結果論でしかないんだ」
そう言う君の声は、どこか淋しそうにも聞こえた。
*青空5
つまり、こういうことだろう。君は空を題材とした絵を描くようになった。すると、それが売れた。そうして、君は空を題材とした絵ばかりを欲されるようになった。顧客の要望には応えなければならない。それがプロとしての道だ。それがわずかの収入にしかならないとしても、君はプロとして絵を描いていかなくてはいけない。
「それじゃあ、本当は空を描くことは嫌いなの?」
「まさか。空の絵は好きだから描いている。嫌いだなんて、とんでもない」
「それじゃあ、どこに問題があるの?」
僕は、手に持っていたチーズケーキの皿をテーブルに置いた。
「その……。やっぱり、もう少しお金がほしいなあって」
俗な願いだと、僕は思った。しかし、それは君にとっては死活問題のはずだった。絵が売れなければ、生活費どころか画材を買うお金すらなくなってしまう。今はルームメイトと共同で生活しているから、家賃や光熱費は割り勘でなんとかなっている。しかし、それもいつまで続くのかは分からない。画家として自立出来るだけの収入が必要だった。
「プラスアルファが必要になってきているの」と、君。
「でも、空を題材にした写真集だってあるだろう? そういうのは結構売れているんじゃない?」
「絵になると、違ってしまうんだ。いくら綺麗に描いても、写実的に描いても、写真が提示してくるリアルさにはかなわない。だから、わたしは余白のある絵を描いている。余白をわざと残しておくことで、見た人のイメージを刺激するの。ここには何があるんだろう、って。それは最初に空の絵を描いた時からやっているんだ……」
「じゃあ、君は自分を貫いているんだね」
「ええ」
「余白に別のものを描いてみたらどう? 例えば花とか?」
「花? それはダメだ。空の下に花畑だなんて、ありふれているというより、おかしいよ。子供騙しの絵に見えてしまう」
「そうじゃなくって、一本だけ花を描いてみるんだ。そうすれば、十分な余白が残るだろう?」
「そうかな。そうかもしれないな。今度やってみようかしら?」
「僕のアイディアが君の助けになれば嬉しいよ」僕は言った。
「いや、今すぐにやってみる」と、君。
君はまだ乾ききっていないキャンバスを取り上げると、そこに一本の花を描き加えていった。青空の下には、アパートやマンションなどのスカイラインが続いている。画面の3分の1ほどは、余白になっている。その中央下のあたりに、君はスミレの絵を描いていく。
「いや、違うなあ。こういうんじゃないかも」
君はそう言って、別のキャンバスを取り上げる。今度は、余白の部分にヒナギクの絵を描き加える。それは僕の目から見ると、成功しているように見えた。青空の下に一本だけ咲くヒナギクの花が、まるで太陽のように見える。そして、余白ににじむように消えていく茎と葉。今にも消えてしまいそうな、時間の流れを感じさせる。
(良い出来だ)と、素人ながらに僕は思った。
黄色いヒナギクの花を、空は丸く包み込むように取り囲んでいた。その絵には、たしかな中心があった。それが絵の中に没入するような感じを与えてくれる。さっき知り合ったばかりの僕が、君の絵を変えてしまったのだった。
「良いアイディアをありがとう。今まで思いつかなかったのが不思議なくらいだけれど……、このヒナギクの花は、余白の余白ね」
君の言っていることの意味はよく分からなかったけれど、彼女の絵が変わったのはたしかだった。
すると君は、立ち上がって壁にかかっている空の絵を、カッターで切り裂きはじめた。僕は驚いたけれど、芸術家の情熱というのはこういうものなのだろうか、とも冷静に考えていた。「これもダメ。これも今までと同じ」などと君はつぶやいている。ほっとしたことに、君は二人の肖像画にだけは手をつけなかった。没にしたのは、最近描いていた絵だけらしかった。
「わたし、本当のことを言うと、このごろスランプだったんだよね」君は言った。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-24T14:58:51+09:00
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その数日後、葉子は数カ月ぶりに弟に連絡を取った。あの日起こった出来事については、自分の幻覚か幻想か分からなかったので、話さなかった。ただ、自分の気持ちだけを素直に話すことにした。
「わたしね、この家に帰ってきて良かった気がする」
「そうなんだ。あの家は、何か温かいんだよ」
「それから、今の仕事を選んで良かったと思うの」
「S市にも仕事はあっただろう?」
弟が答える。葉子も弟の言葉には同感だった。たしかにこの家の印象は温かかったし、中学生相手に音楽を教えるという仕事も、だんだんに充実したものとして考えられるようになってきた。ただ、あの日のように奇跡のような幻想のような出来事が起こることはもうなかった。
しかし、葉子はそれ以来自由にオルガンの演奏が出来るようになった。父と母のことは思い出さなかったが、あるいは父と母の霊が助けてくれていたのかもしれない。葉子は作曲家になったわけではなかったが、家に帰ってくると決まってオルガンで即興の演奏をした。
教え子たちには、以前よりも丁寧に音楽について教えるようになった。例えば、「ドレミファソラシド」がなぜ「ド」から始まるのか。その由来については調べてもよく分からなかったが、昔は1オクターブが5音や6音の時代があったこと。1オクターブが12の音で成り立つようになったのは比較的近代に入ってからであること、などを教えた。
例えば日本の音階でも、47抜き音階というものがあって、「ファ」の音や「シ」の音というのは本来は存在しない。そうした音階でも成り立つ音楽があること、などを生徒たちに教えた。彼らは興味を持って聞いていたし、あるいはその中から未来の音楽家が生まれるかもしれなかった。
(音楽というものにもっと興味を持ってもらえれば、それで良い)
と葉子は思った。
あの日以来、葉子は即興の曲を書きためていった。ただし、譜面に起こすことは滅多になく、ただ気持ちの赴くままに演奏をして、それを音源として録音した。それは次第に膨大な数になっていった。
ある時、葉子はそれらの楽曲を動画配信サイトや音源アップロードサイトにアップロードすることを思いついた。下着姿では具合が悪いので、ゆったりとして動きやすい、黒のオーバーオールを着て録音した。その様子は、どこか萩原朔太郎の「黒い風琴」を連想させるようなものだった。
「おるがんをお彈きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて
おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這ふのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに
おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。」
学校の生徒たちには、葉子は作曲もする先生だということがだんだんに知られるようになっていった。動画サイトで「いいね」を付けてくれる生徒たちもいた。そのうちの何人かとは、葉子は積極的に音楽の話をするようになった。未来の演奏家や作曲家は、その中にいるのかもしれなかった。
葉子がS市に帰ってきてから1年ほどが過ぎた。新しい仕事を見つけてからは半年ほど経つ。その間に、春、夏、秋、冬、4つの季節を経験した。それぞれの季節で、頭に浮かぶ旋律は微妙に異なっていた。ある時には「トッカータとフーガ」のように激しく、ある時には「前奏曲とフーガ」のように優しく、心のなかにメロディーが浮かんだ。
学び直さなくてはいけないことが山ほどあった。「自分は音楽について何も知らなかった」と葉子は思う。学生時代に作曲が出来なかったのは必然だった。バンドメンバーにも誘われたが、彼らは彼女よりもずっと多くの努力をしていた。1つの曲を作るということは、音楽の歴史そのものを学ぶことに等しかった。
いつか、誰かの詩に音楽を付けたい、と葉子は思った。それは萩原朔太郎の詩でも良かったし、立原道造や中原中也の詩でも良かった。日本らしい、日本人にしか作れない音楽が作りたかった。それが、今の葉子には出来そうに感じられた。
(あの日のことは何だったのだろう)
と、葉子は時折考える。少なくとも、狂気や病気ではない。芸術という「虚構の世界」に取り憑かれたわけでもない。ただ、不思議な現象が起こったことは間違いなかった。葉子は人形たちが話す言葉を聞いた。
「彼ら」は、この家でずっと生きていた。そして、今も生きている。だからこそ、その声が聞こえてきたのだろう。
弟とは、頻繁にではないけれど、以前よりも多くの会話をするようになった。メールや電話で、葉子は弟と話をした。弟は、葉子がついに作曲家になったのだと考えていた。アップロードされた動画を褒めてくれることもあった。それは依然として両親のかつての思いには反することだったが……葉子はこれまでよりももっと、ずっと、自分の道を思いを実践出来ているような気がした。
親ゆえの心配、というのは杞憂に終わった。今の時代、ありきたりの生活をしながらでも芸術に参加することは出来る。誰でもが芸術家になれる。葉子もその一人となった。そして、いつかは作曲家として認知されることになるのかもしれない。動画サイトに付けられた「いいね」の数を思えば、それは遠くない未来のことにも思えた。
あの日、洋服箪笥の上から彼女のオルガンの上に移動してきた人形は、今でもその場所に座っていた。それが、彼女の神秘的な体験を真実だったと証明してくれるものだった。
(あれは、お母さんがその妹からもらってきたものだったっけ?)
ところどころ染みになっている人形は、洗えば綺麗になるのかもしれなかった。ただ、葉子はその人形をそのままにしておいた。洗えば、今までの魂は消えてしまいそうな気がしたから……。
自分の家や仕事が気づまりだと思うことはなくなった。ただ、毎日を自由な気持ちで葉子は生活出来るようになった。時折、葉子はオルガンの上に置かれた人形に向かってほほえみかける。そうすると、自然と頭の中にメロディーが浮かんでくる。彼女の指は鍵盤の上を走る。それはバッハの作曲したフーガのように、いつまでも絶えることがないもののようだった。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-22T13:48:14+09:00
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結局、葉子が次に就いたのはやはり退屈な仕事だった。中学校の非常勤講師。それを選び取るのにも数カ月かかった。弟は姉が再び音楽の仕事に就けることを喜んだ。ただし、葉子にとっては素直に喜べないものがある。
たいていの大学では、学校の教職員になるためのコースが用意されている。「学校の先生になる」ということは、就職に失敗した時のための非常線のようなものだった。もし、プロの音楽家としての道に精通出来なくても、学校の教師になれば食べるのに困ることはない。多くの学生たちはそんな風に考える。それは葉子も同じだった。
ただし、葉子の場合は教師陣の覚えもめでたかったせいか、すんなりと大学講師の職を得ることが出来た。才能があってもコネがない、コンクールでの受賞経験がない、そういった理由で大学に残れない学生は大勢いる。葉子の場合も、単に幸運が味方したと言って良かった。
中学校での非常勤講師の仕事は、一言で言えば単純労働のようなものだった。生徒たちに音楽を教えることは大学の講師時代と同じでも、そのレベルは格段に違っていた。何よりも、中学校の生徒たちの多くはプロの音楽家になることを目指していない。時にはとんでもない質問が飛んでくることもある。
「先生、ドレミファソラシドはどうして『ド』から始まるの?」
「先生、五線譜ってなんで線が5本なの?」
「先生、モーツァルトとバッハはどっちがすごいの?」
単純労働というのは、得てして時に困難なこともある。そんな質問をされると、葉子はどんな風に答えれば良いのか分からなくなる。ただなんとなく、おざなりな答え方はしてはいけないような気がしていた。
だから、
「今度までに調べておくね」
と言って回答を保留する。それでも、生徒たちはなんとなく納得してくれる。大学の学生たちと違うのは、音楽の技術を上達させたいのではなく、先生にとにかく何かを答えてほしい、そんな欲求に基づいて質問を発している、というところだった。
あるいは、
「そう決まっているのよ」
とだけ答えても、問題はなかったのかもしれない。ただ、その時には「この先生は使えない先生」という烙印を押されただろう。いくら糊口をしのぐための仕事とは言っても、それは葉子には納得出来なかった。自分では意識していなくても、「かつては音楽家を目指していた」というプライドが葉子にはあるのかもしれなかった。
弟は未だに、「姉はきっと音楽家として成功する」と考えているらしかった。その道は葉子にとってはあまりにも遠いものであるような気がした。
(今から音楽家ですって? いくら年齢は関係ない時代だからって……)
結局のところ、葉子は音楽に触れていさえすれば良かったのだ。大学時代に「自動人形」と呼ばれることがあったのも、そのためだ。葉子にとっては、芸術家や音楽家というのはごく普通の仕事の一つに過ぎなかった。演奏家になることと学校の講師になることとは、彼女にとっては大差のないものだった。オリジナリティーなどなくても良い。ただ、葉子は音楽に触れていたかった。
郊外にある彼女の家(今は自分だけの家)まで帰ってくるには、市営の公園の中を通って来なくてはならない。その道は、雨や雪が降るとぬかるんだ。それが葉子をますます気づまりな思いにさせる。「仕事には満足していると言っても、今のわたしはどこか呪われているような感じがする」――時々そう思うことがあった。
トーベ・ヤンソンの童話には、フィリフヨンカという女が出てくる。フィリフヨンカは音楽家であるスナフキンに憧れて、ハーモニカを吹いてみようとする。それはもちろん、素人の演奏だ。自分は、どこかこのフィリフヨンカに似ているようなところがあると、葉子は思った。誰もが隠し持っている才能が、自分の場合にはたまたま表に出てきてしまっただけなのだ。
5.「幻想曲とフーガ」
それは、
「先生、モーツァルトとバッハはどっちがすごいの?」
と聞かれた日のことだ。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ。音楽家のフルネームを知っている生徒は意外に少ない。一般人は、と言い換えても良いだろう。
J・S・バッハと言えば、真っ先に思い浮かぶのは「ブランデンブルク協奏曲」だった。オルガニストを目指していた葉子にとっては、バッハのオルガン作品のほうが親しいのではないか、と思われるかもしれない。しかし、葉子の大学時代の友人は「ブランデンブルク協奏曲」を好んで聴いていた。最初はその良さが分からなかったけれど、葉子は次第にその曲に惹かれるようになっていった。
今では、バッハと聞けば「ブランデンブルク協奏曲」の甘い旋律だけを思い浮かべる。それはどこかロココ調のようで、バロック時代の音楽としてはふさわしくないようにも思われた。もっとも、この偉大な作曲家の膨大な作品には、様々な技巧や意匠を取り入れた作品が入り乱れているのだけれど。
そう。そして今、葉子はオルガンの前に座っている。気づまりになった時によくそうするように、服をすべて脱いで下着だけの格好になっていた。身体が内部から火照るような気が、なんとなくしていた。
(本当に、バッハとモーツァルトではどちらがすごいのだろう)
答えようもない問いに、葉子は振り回される。
葉子はオルガンの前に座って、「トッカータとフーガ」を弾き始める。そして、「なんとなく違う」と思う。それは今の彼女の気分に合うものではなかった。あの時代、楽器と言えば弦楽器や管楽器、オルガン、そしてピアノではなくてクラヴィーアが主流だった。
ただし、古い時代の曲を古い時代の楽器で演奏する、というこだわりに葉子はあまり関心を持っていない。ピアノで演奏出来るのであれば、ピアノで演奏してしまえば良い。こういうところも、音楽学校である種の教師たちから嫌われる要因になったところだろう。
葉子は本棚から様々な楽譜を引っ張り出してくる。ベートーベンでもない。モーツァルトでもない。ましてや、フォーレでもドビュッシーでもラベルでもなかった。オリヴィエ・メシアンやジョン・ケージの楽譜もぱらぱらとめくってみたが、今の彼女の気分に合いそうなものはなかった。そしていつか、譜面を完全に暗記している曲に戻ってしまう。
「トッカータとフーガ」の次には、「幻想曲とフーガ」を弾いた。これもなんとなく違う。そして、「前奏曲とフーガ」。意外なことに、この旋律は今の葉子の気持ちに不思議に合致していた。気づまりな仕事、気づまりな街。バッハは教会に所属して作曲活動をしていたが、中には気乗りのしない仕事もあったのだろう。
(『前奏曲とフーガ』はどうなのだろう?)
葉子は考える。その時、なぜか家じゅうの物たちが頷いたような気がした。
(えっ?)
と、葉子は思う。
(物が物を言うはずがない)
葉子は周囲を見回す。「今のあれは何だったのだろう?」と。
「前奏曲とフーガ」はそれほど長い曲ではない。およそ10分くらいで演奏が終わる。そして、曲の出だしから何かが始まり、そして終えてしまっているような曲だった。「トッカータとフーガ」が驚きをもたらすための曲だとすれば、「前奏曲とフーガ」は落ち着きをもたらすための曲、そういう言い方をすることも出来そうだった。
そして、また周囲がざわつく。
(いつの間に、この家は幽霊屋敷になってしまったのだろう?)
葉子は怪訝に思う。もちろん、幽霊や霊魂の存在など葉子は信じてはいない。この家に住んでいても、父親や母親の気配は感じたことがなかった。だから、この異様な気配は葉子の思い過ごしのはずなのだ。
6.小さな者たちの声
音楽は一度始められたら、当然続けられなくてはいけない。途中で終わってしまう音楽というものはない。それは、作曲で芽が出なかった葉子には痛いほどよく分かっていることだった。しかし、この「前奏曲とフーガ」は初めから「終わり」として始まっているように思える。
「前奏曲とフーガ」は、バッハの長い創作人生の中では中期~後期に当たる時期にかけて作られた曲だ。つまり、壮年にさしかかった彼が作り出した曲だと言える。バッハがこの曲を作曲した時の年齢は、もちろん今の葉子の年齢よりも上だ。
(この曲の中には、まだわたしが経験したことのない思いが込められているのだろうか?)
と、葉子は思った。
(前奏曲って、何に対する前奏曲なのだろう……)
答えはもちろん、「フーガ」に対する前奏曲なのだが、それとは違った意味が込められているようにも感じられた。まるで、バッハは「自分の人生はこれからだ」と考えて、この曲を作ったようにも思われる。フーガの部分も、「トッカータとフーガ」に比べるとずっと穏やかだ。
壮年にして人生はこれからだと思える、だからバッハはすごいのではないだろうか。「前奏曲とフーガ」はBマイナー、つまりロ短調の曲だ。モーツァルトのように若くして亡くなった人間には作り出せないものが、そこにはある。葉子は、生まれて初めてバッハに対する畏敬の念を抱いた。
部屋のなかの「ざわつき」はまだ収まっていなかった。葉子には、人形たちが喋っているかのように感じられる。(今は自分の)家の中には母が残していった人形やぬいぐるみがいくつもある。たいていはもらいもので、母自身はそうした物を嫌っていたが、幼かった葉子にとってはそれらの存在はまぶしいものだった。
(そう言えばこの子たちも、数十年の時間を生きている……)
人形に生命があるならば、の話だが。
「あなたの出す『ソ』の音、とても良い感じがするな」
突然、人形たちの一つが口を開いていった。葉子は驚いた。最初は幻聴か幻覚だと思った。でも、そうではないらしい。
「僕もそう思う。葉子の出す『ソ』の音が良い」
今度は別の人形が話し始める。「やはり、わたしは狂っているのではないらしい」と、葉子。この家が幽霊屋敷であってもおかしくはなかったが、肝心の幽霊たるべき父や母の面影はどこにもない。話しているのは人形たちだった。家具や本までが、これに呼応して何かを喋っているような感じがする。
「何を驚いているの?」
と、最初に口を開いた人形が言った。それは洋服箪笥の上を離れて、今ではいつの間にか葉子の弾いているオルガンの上に移動している。
「あなたも曲を作ってみたら良いのに!」
人形は再び口を開いて言った。今度は驚くのではなく、冷静に、「わたしに作曲なんて出来るはずないよ」と葉子は考えていた。
(この屋敷が幽霊屋敷でもべつにかまわない)
そう、葉子は考える。一人だけで気づまりに生きているよりもむしろ……と。
弟には何と言うべきだろう。
「この家、怖いのよ。人形たちが喋るの」
「わたし、この家に帰ってきて良かった。この家はまるで生きているような感じがする」
答え、というか言葉はいくつか用意出来た。そして、いつの間にか自分が即興の曲を演奏し始めているのに気づく。「『前奏曲』に続くものが、もしもフーガでなかったら?」と考え、葉子の紡ぎだすメロディーはどんどん変化していく。葉子はいつの間にかト長調の即興曲を演奏していた。
「そうそう、そういうのが聴きたかったの」
人形の誰かが言った。あるいはぬいぐるみかもしれなかった。その言葉には不思議な温もりがある。そして、葉子が今演奏している曲にも。――普段の仕事で感じている気づまりな思いが、自由に曲を奏でることで払拭されていくような気がした。この感情は、大学での音楽教師をしていた時にも感じられなかったものだ。
(今、わたしの周囲ではたしかに何かが話をしている……) ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-22T13:47:20+09:00
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この暗い家屋の内部に
ひそかにしのび入り
ひそかに壁をさぐり行き
手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。
――萩原朔太郎「内部への月影」
1.自分だけの部屋
父と母のいない家の中は閑散としていた。葉子は一人でオルガンの前に座っている。部屋のなかは整然と整理されていて、楽譜を入れておく本棚の他には、電子オルガンが一つあるきりだった。
この家に帰ってきた時、葉子は言いようのない淋しさを感じた。「この家がわたしに残されたすべて?」――そう思った。父や母に財産がないことを思ったわけではない。ただ、残されたこの家が彼女の墓場のように感じられていた。
東京の音楽大学の講師の仕事を辞めると言った時、もちろん同僚の誰もが反対し、葉子を引き留めようとした。
「今は一人でも仕事がほしいと思っている時なのに……」
「大学の仕事を辞めるなんて勿体ないよ。それに実家に帰るとかって……」
「実家にはもう誰もいないんでしょう?」――という言葉を、その同僚は飲み込んで口にしなかった。もちろん、デリケートな話題だと分かっていたから。それでも、葉子の気持ちに変わりはなかった。
「帰ればまた、一から仕事を探すことになる」――ということを葉子は分かっていた。今までのように収入や待遇の良い仕事は見つけられないだろう。あるいは、自分も路頭に迷うかもしれない。リスクは承知していた。
ただ、実家に残された部屋にはどうしても帰らなくてはいけないような気がしていた。両親が生きていた間、葉子は親孝行らしいことは何もしてあげられなかった。「今ではもう遅い」――そう思う。
父の死の報せをしてきたのも、母の死の報せをしてきたのも、葉子の弟だった。弟は弟で実家に近い場所で自立して生活を送っていた。当然家庭も持っていたし、息子と娘が一人ずついた。実家との間は時折行き来していたらしい。葉子は、実家のことも弟のことも何も知らなかった。
それを、彼女の気まま、と決めつけてしまうのは早計だろう。葉子は自分なりの努力をしながら生きてきたし、その人生は葛藤と苦労の連続だった。大学の講師という仕事もすんなりと得たものではない。人一倍の努力をしてやっと勝ち取った仕事だった。
それだからこそ、同僚たちは葉子を引き留める。
「他にこんな良い職場ってないよ?」
「今までのキャリアを無駄にする気か?」
「そもそも田舎に仕事ってあるの?」
同僚の誰もがそんなことを言った。たしかに、地方都市にある仕事は少ないだろう。良くて小学校や中学校の音楽教師、悪ければピアノ教室の先生くらいだ。そんなことは誰に言われなくても分かっている。ただ、両親が自分に残した家だけは、どうしても自分で守らなくてはいけないような気がしていた。
「土地と家は姉さんに{ルビ遺=のこ}すって」
そう弟から言われた時、葉子は正直言って驚いた。母の葬儀にも、父の葬儀にも、葉子はほんの顔出し程度に参列しただけだった。二人の死は弟からの報せで知った。死の床を見舞ったこともなければ、死の瞬間を看取ったわけでもない。それほど葉子と実家の両親とは疎遠だった。
「父さんたちは姉さんの仕事に反対していたから」
と、弟は言う。大学の講師という仕事はもちろん恥ずべき仕事ではない。ただ、父も母も芸術は人を狂わせると考えていた。だから、弟は工業分野の仕事に就いた。大学への進路を決める時にも、葉子は両親とさんざんな議論をした。結局、学費も生活費も自分で払う、ということでそのことは決着した。
葉子は奨学金の支払いを受け、アルバイトをしながら大学に通った。それだけの努力をしても、父や母は葉子に対して良い顔はしなかった。「自分は疎まれている」と感じたことも二度や三度ではない。
それが今、葉子は自分の実家に帰ってきている。誰もいない、彼女一人きりが住む家に。父と母は何を思って、土地や家を彼女に遺すことにしたのだろう。あるいは、葉子に対する振る舞いを何か後悔しているところでもあったのだろうか。財産など他にはほとんどなく、弟はいくらのお金も受け取らなかった。
2.学生時代
葉子の大学生活は充実していた。親身に相談に乗ってくれる友人が何人もいたし、懇切に指導してくれる教師もいた。彼女はオルガニストになりたいと思っていた。
しかし、彼女の両親に関して言えば、別だった。ピアノやオルガンを習わせたのは教養のためであって、娘を芸術家にするためではない、と思っていた。葉子が大学の音楽講師という「平凡」な仕事についてからも、それは変わらなかった。
葉子の両親が彼女に連絡を取ってくることはなかったし、彼女自身も実家には一度も帰らなかった。普通、娘が東京の大学に進学すれば、親は心配して何かと世話をしたがるものだ。しかし、葉子の両親は年賀状一枚送ってきたこともない。ただ一度、在学中に「母親が病気になった」という手紙を父が送ってきたきりだった。
母の病気は間もなく治癒した。その間も、葉子は実家には帰らなかった。大学に在学中も彼女の経済状態は厳しいものだったし、アルバイトの仕事を放り出して実家に帰るというわけにはいかなかった。母の病状は弟が知らせてよこした。それによれば、命に別状はないし、もうすぐ退院できる、ということだった。
音楽大学という自由な校風のために、葉子はバンドメンバーとして誘われたこともある。キーボーディストが必要だ、ということだった。しかし、彼女自身はクラシックを志向していた。葉子がロックバンドのメンバーに加わることはなかった。それには、作曲の才能が皆無だったことも影響していたかもしれない。決められた通りに楽譜を演奏する、それだけが彼女の才能だった。
大学の講師たちは、そのことが彼女の優れた点でもあるし、劣った点でもあると考えていた。有名な演奏家に例えれば、葉子はマルタ・アルゲリッチのような演奏をした。グレン・グールドのように個性的な演奏を期待していた講師たちはそのことを残念がったし、逆に保守的な教師たちはそれが葉子の美点だと考えていた。
彼女が音楽以外に興味を持ったものは少なかった。ファッション、映画、絵画、文学。そのどれにも葉子は興味を示さなかった。ただし、文学の中でも詩だけはよく読んだ。詩は、文学のなかでもとくに音楽によく似ていた。
(いつか、これらの詩たちにメロディーを付けることが出来れば)
そんな望みは、もし葉子に作曲家としての才能があれば叶っただろう。しかし、彼女には作曲家としての技量が欠けていた。頭の中に思い浮かぶイメージは、既存の曲を聴いたり、その楽譜を見て初めて生まれるものだった。そのイメージが指先に伝わって、彼女は演奏をする。まるで自動人形のように。
彼女の演奏を「神がかっている」と評した者もいたが、たいていの聴衆はがっかりした。それは、葉子の演奏があまりにも譜面通りだったからだ。だから、例えば楽譜の余白を読み取らなくてはいけない、モーリス・ラヴェルのような作曲家の場合、彼の作った曲を演奏することは葉子にとっては苦手だった。
(せめてフォーレやサティ、ドビュッシーのように分かりやすい曲を作ってくれれば)
と、葉子は思う。彼らの曲は譜面だけを見れば演奏出来るのに、同じ時代に生きた音楽家の中でも、ラヴェルの曲だけはどこか違っている。譜面通りに演奏すれば、それはどこか間の抜けたオルゴールか、人形の演奏のように聞こえてしまう。実際、葉子の演奏は「人形による演奏」と呼ばれることが度々あった。
それでも、葉子の学生時代は順調に過ぎていった。複数の奨学金が得られるようになってからは、アルバイトに割く時間を減らして音楽活動に深く打ち込めるようになった。ただそれでも、彼女の作曲技術は向上しなかった。きっと、天性の何かが彼女には欠けていたのだった。
(父や母はわたしにピアノを習わせた)
それは何のためだったのだろうか……と、時折葉子は悩むことがあった。
3.再び実家にて
実家のあるS市に帰ってくると、そこは東京とは何もかもが違っていた。まず驚いたのは、エスカレーターのスピードが遅いことだ。
(いくら田舎とは言え、こんな違いがあるなんて)
と、葉子は思った。この街に帰ってきたのは、母の葬儀以来数年ぶりのことだ。S市の時間は、まるでその時から停止するようだった。もっと言えば、高校の卒業時点から、この街は変わっていなかった。「東京とは何もかもが違う」――あらためてそんなことを思う。
父の葬儀を済ませると、葉子は一旦は東京に帰った。実家については、空き家の管理業者にその管理を任せるつもりだった。東京での仕事は順調だったし、それを捨てて帰郷する理由はどこにもなかった。
葉子が実家に帰ることにしたのは、弟がその家に住んでほしいと懇願したからだ。自分たちが子供のころに過ごした家を、そのまま放ってはおけない、と弟は言う。さらに、家を取り壊して土地を売り払うことなどもっての{ルビ外=ほか}だと、弟は考えていた。しかし、今の彼には家庭があり、実家に引っ越すという選択肢はない。ならば、姉の葉子に「自分たちの家」に住んでほしかった。
「どうせ人に教えるだけの仕事なんでしょう?」
と、弟は言う。弟は父や母とは違って、姉に芸術家になってほしかった。「きちんと作曲も出来るのが芸術家だ」と、弟はかたくなに信じていた。「人に音楽を教えるだけでは、芸術家にはなれない」――それが弟の考えだった。ただ人に音楽を教えるだけなら、東京にいてもS市にいても変わらない。同じことが出来るはず、というのが彼の言い分だった。
(その通りに違いない)
と、葉子は思う。在学中の期待感は何だったのだろう、と思うほど、彼女の仕事は平凡なことの繰り返しだった。学生たちを前にして講義をする、演奏の指導を行う、彼らの就職先や演奏技術についての相談に乗る。言ってみれば、葉子のしていたのは「退屈な仕事」だった。その退屈さにも葉子は満足していたのだが……
S市に帰ってきた当初、葉子を襲ったのは強烈な違和感だった。もちろん、東京と地方都市では何もかもが違っている。話す言葉も違う。「自分もこの街で生まれたはずなのに」――東京に長くいすぎたことが、彼女の感覚を変えてしまったのかもしれなかった。
そして、土地には土地の霊というものがある。そこに住んでいる者たちの生活、生き方、話し方、人との接し方、それらがすべてあわさって、土地の霊というものが出来上がる。それは、ある時はよそ者を寄せ付けないし、ある時は包容力を持ってよそ者を包み込む。
(今のわたしは、この街にとっては部外者なのだろう)
そう、葉子は結論した。
家の中にいても、何かが違っていた。それは「淋しい」というのとは違う。むしろ、何らかの力で家の中が満たされている感じだ。ありていに言えば、葉子は自分が幽霊屋敷に住んでいるかのような気分になる。しかし、不思議と父や母の霊魂の存在は感じられない。そのことを葉子は不思議に思う。
強いて例えるなら、家の中に座敷童が住んでいる、といった感覚だろうか。その名付けようのない感覚に、時として葉子はとまどってしまうことがある。箪笥や本、人形たちが命を持っているのだろうか……そんな風にオカルティックな考え方もしてみた。しかし、そうした安易な結論は葉子を満足させない。「家」は、葉子を拒絶しているのではなかったから。
仕事は簡単には見つからなかった。まず第一に、S市には芸術系の大学や音楽学校がない。仕事を求めるのであれば、中学校や小学校の講師、あるいは音楽教室の講師などが妥当だったろう。それにしても、音楽の講師という求人は少なく、葉子はS市の環状線に乗ったまま、一日中ぼんやりと仕事のことを考え続けていたこともある。
当面は貯金と失業保険だけでなんとかなっても、いつまでも無職というわけにはいかなかった。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-22T13:45:57+09:00
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ニュース屋が言ったように、一面識もない人間の生死のことなど、他人が分かるものなのだろうか。そう考えながら、Lは夜の間も歩き続けていた。S市の繁華街はそれほど広くはない、いつの間にかY山の麓付近を歩いている。Y山はS市のほぼ中央にある小高い山で、昔はこの上に山城が築かれていた。今では大学のキャンバスになっている。
(何も考えまいと努めていたはずなのに……)
色々と多くのことを考えてしまっている、そうLは思った。それに、死ぬといっても本当に今日死ななくてはいけないのだろうか。あるいは、これも病気の一つの症状なのではないだろうか。うつ病の患者はしきりに自殺したいと考える、それくらいの知識はLも持っていた。
しかし、今のLの気持ちはそれとは違っているようだった。
(死は必然だ)
という考えが、何度も頭のなかで木霊する。
30歳という年齢は寿命と言うにはあまりにも若い。母の後追い自殺をしたいわけでもない、父との間がそれほど不仲だというわけでもない。どれも、今死ぬのにふさわしい理由ではなかった。
(なんとなく死んでも良いんじゃないか)
と、Lはふと思う。パウロ・コエーリョの小説でも、主人公が死のうとしたのは「なんとなく」という理由だった。それなら、わたしがなんとなく死んでも良い、という十分な理由になる。たとえ病気ではなくても、人は死んでしまうことがある。Lは、なぜかしらそんなことを証明したい気持ちになっていた。
例えば、バケツの水が一杯になってあふれてしまったような場合だ。バケツを水道の下に置いて、一滴ずつの水を滴らせていた場合でも、いつかはそのバケツは水で満杯になってしまう。そこから後は、水道から水が滴り落ちればバケツからこぼれて落ちるだけだ。死がそんな理由によって来ても良い……。
(それとも、わたしが昔から水面下で自殺を考えてきたのだとしたら?)
答えはいつまで経ってもはっきりしない。いつの間にか夜明けが迫っていた。
厚いコートを着ていたので、夜じゅう歩いていても寒くはなかった。むしろ温かいくらいだった。あるいは、その日の夜がこの季節ではとりわけ暖かかったのかもしれない。
(なんとなく死ぬ)
という理由にLはすっかり取りつかれていた。そして、MP3プレイヤーの電源はとっくに切れていた。しかし、イヤホンはそのままつけっぱなしにしていた。耳をふさぎたい。耳をふさいでいれば、やがて何もかもがはっきりしてくるように感じられる。だから、今は何の音も聞きたくない。Lは高揚感さえ覚えながら、そう思った。
ニュース屋の言葉をもう一度思い出したのは、そんな時だった。
「それがいつのことかも知っている」
そうだ。わたしは自分がいつ死ぬのかを知っている、それだけのことではないのだろうか。それが今日だった、それだけのことではないのだろうか。Lは心の内で反芻する。
(わたしは、自分の運命を知っていた?)
まるで猫が自分の死に時を知っているように。
Lは友人のMにLINEを送ってみた。
「何、こんな時間に?」
「えっと、お別れを言いたくって」
「はあ? こんな朝早くから迷惑なんだけれど」
「これが最後だと思ってさ……」
「いい加減にしてくんない!」
「ごめん、悪かったわ」
予想通りの答えが返ってきたので、Lは満足した。今では、
(わたしが死を待っていたんじゃない。死のほうがわたしを待っていたんだ)
と思うようになっていた。
Lは再びH橋の上まで来ていた。H橋は自殺の名所などではない。そこから飛び降りても、自殺など出来そうにはなかった。Lはハンドバッグの中から二冊の本、聖書と「死の家の記録」を取り出して、川の中へと投げ込む。まるで、子猫か子犬を放り込むように。それは、生に対する決別のようなものだった。
*死への旅路
Lは心が軽くなっているのを感じた。「こんなにも心が軽いのは何年ぶりのことなのだろう」と、Lは思う。その間には嬉しいこともあったし、悲しいこともあった。しかし、心がこれほど晴れ晴れとしていることはなかった。
(わたしが死を待っていたんじゃない。死のほうがわたしを待っていたんだ)
もう一度Lは思った。
空からは、再び小雪が降り始めていた。
<哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。>
という台詞がまた頭の中に蘇る。
(わたしはイカルスのように失敗はしない)
そう、Lは感じる。その翼が蝋で塗り固められたものであっても、太陽がその蝋を溶かすことはないだろう。
Lは、親しい友人全員に向かって、「今日死ぬことにした」というメールを送った。返信は一通もなかった。それが世界から見捨てられたことだと、Lは確信した。しかし、スマホもPCも使わない父にだけは、今の気持ちを伝える術がなかった。死の前に父の元へ寄っていこうか、とLは考える。が、それも父の余計な心労を増やすことになるだけだろうと考えて止めにした。
(死んでしまう人間はそれで良い、でも、死なれた人間にとってはいろいろとすべきことがある)
今際の際になっても、Lはそんなことを考えていた。夜通し歩いていた後で、頭は呆然としていた。これで自動車でも運転すれば、簡単に事故を起こせる。自殺のような事故死、と警察は発表するだろう。そして、誰も他人を巻き込まないこと。どうすれば、そんなことが可能だろうか?
実家にも自動車はあったが、Lはレンタカーを借りることにした。いずれにしても、実家に帰っている時間と余裕はないような気がした。レンタカー会社には迷惑をかけることになるだろう。しかし、死後の迷惑など誰が知ったことだろうか? 自動車を運転して、そのまま崖から落ちてしまえば良い。あるいは、ガードレールを突き破って、谷底に落ちてしまえば良い。レンタカー会社でも保険くらいはかけているだろうから、損をすることはないはず……
そんな実利的な考えがLを支配する。「死」は一種の賭け事のようでもある、とLは思う。ニュース屋も言っていたではないか、自動車が何か関係があると。けれども、少年の予言に従うことはなんだか癪に障る。これでは、まるで少年の口車に乗って自殺したかのように思えてしまう。あるいは、洗脳されたかのように。
(やはり、海が良い)
と、Lは思う。「Kの昇天」でも主人公は海で自殺をした。なら、わたしも海で、だ。
それから自動車を何時間運転しただろうか。S市は海からは遠い。いや、実際には海に隣接しているのだが、S市の繁華街からは海は遠い。それなりの距離があり、自動車でも何時間か運転して行かなくてはならない。
レンタカーのダッシュボードには、誰かが忘れて行ったのか、あるいは故意に入れておいたのか、ザ・ローリング・ストーンズの『スルー・ザ・パスト・ダークリー』が入っていた。Lはそれを備え付けのCDプレイヤーにかける。
誰かからメールの返信が来たが、Lは放っておいた。これから死のうとしている人間にとって、メールの返信など関係ない。たとえそれが自死を引き留めるような内容のものだったとしても、Lは気にかけないだろう。それどころか、鼻で笑ってしまうかもしれない。父に会えないことは心残りだったが、それも今では気にならなくなった。
(英語の歌は良い。だって、意味が分からないもの……)
Lは思った。ただ、「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」という曲名だけは知っていた。Lにとって、死は決して後ろ向きのものではない、前向きのものだった。もしも助手席に人がいたら、この旅はロードムービーのようなものになっただろう。そして、『テルマ&ルイーズ』のような結末を迎える。
*終着点
Lにとっては不幸なことに、S市の海岸線には高い岬や断崖のようなものはない。どこまでも砂浜と防風林が続いている。道路は、海を隔てて防風林のこちら側にある。海が見えるのも時々だけだった。
(わたしはこのまま死ねないのかな)
とLは思う。決断が付かないわけではない、死ぬに足る場所が見つけられない、その焦燥感だけがあった。(自分は「Kの昇天」の主人公のように砂浜で死ぬことが出来るだろうか。それほど自分は徹底しているだろうか……)Lは訝った。
(このまま自動車がガス欠を起こす場所まで走っていって、そこで海に飛び込むというのは?)
だんだんに、Lの脳裏には荒唐無稽な考えが渦巻きだす。死ぬ前にガソリンは満タンにしておこう、と考えて、Lは一度ガソリンスタンドに立ち寄った。スタッフが笑顔で迎えてくれる。そして、Lは仏頂面。これではまるでコメディーだ、と思わないこともない。
結局、S市の港のそばで自動車を止めることにした。
(ここから、海に入っていけば良い。溺死は出来なくても、凍死ということなら出来るかもしれない。じゃあ、わたしは夜まで待つんだろうか……)
結末はすぐそばまで迫っていた。Lの友人たちが、Lの父親が、この後生きてLに会うことはないだろう。Lはそのことを確信していた。では、どうして自分は死ねるのだろうか。どうして、死ぬということが分かっているのだろうか。砂丘のような砂浜を、Lは海に向かって歩いていく……それは昨夜の彷徨の続きのようにも感じられた。不思議なことに、眠さやだるさは一切感じなかった。
見慣れた花である浜昼顔の開花時期はもっと後で、砂浜には浜豌豆の花だけが小さく咲いていた。
(そうだ、こんな時期に海に来たことはなかったのだったっけ……)
冬の海の色は青というのには程遠くて、グレーの混じったターコイズのような色をしていた。それは、空が曇り空であるのも関係していたかもしれない。が、そうでなかったとしても、その日の海の色は濃い藍色のように見えたのではないだろうか。Lは、死出の旅というものにここが本当にふさわしいのか、疑問に思った。
左手を見渡すと、S市の港があり、停泊中の船やクレーンなどが見えた。右手には、ずっと砂だけが続いている。
と、その時だった。Lは自分の背中がうずくのを感じた。「かゆい」というよりも「痛い」という感覚がする。身体は中から火照って、熱さにたまらない気持ちになる。Lは急いでコートを脱いだ。Lはその場にしゃがみこんでしまう。
背中のうずきはだんだんと強くなっていく。セーターの後ろが盛り上がるのを、Lは感じた。それが何なのか、Lには分かるような気がする。
(待っていたのは、死ではなかったのだ!)
と、Lは直感する。そして、セーターの縫い目を突き破って、最初の羽根が現れた。それは、まさしく天使に生えているような翼だった。――「Kの昇天」? 「ベロニカは死ぬことにした」? ……生ぬるい。それは死よりも激しい苦痛だった。
(わたしは羽化してしまう)
と、Lは思う。赤ん坊が産道を貫いてこの世界に現れてくるように、Lの背中からは翼が生えていた。それは、Lの身体を中空に持ち上げられそうなほどに、大きくなっていく。
(わたしを待っていたのは、「死」ではなかった……)
――Lは再び思う。
常人にはとても耐えられそうにない苦痛の後で、Lは完全に羽化していた。その翼をはばたかせると、身体が地面から20~30cmは浮き上がる。そうして羽ばたきを繰り返すごとに、Lの身体はだんだんに地面を離れていく。
恍惚感など微塵もない、それは新しい「生」だった。
(わたしは天使になったのだろうか、悪魔になったのだろうか?)
今のLに、それを確かめる術はなかった。ただ、羽ばたいて上空へ行くにつれて、S市の街並みが小さく見えた。友人や知人たち、父親の影がそこに透けて見えるような気がした……。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-19T16:57:37+09:00
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今から1年ほど前、Lは精神病院に入院していた。そこでは何もかもがおかしかったし、何もかもがおかしいことが正常だった。
人というのは、その置かれている環境にすぐに順応してしまうものだ。患者の誰かが窓ガラスを割っても、病院の職員たちは平然としていた。患者たちも、何か面白いものでも見るように割れたガラスを見守っていた。
窓ガラスを割った患者は、その直後により重い患者がいる病棟へと移されていった。Lが入院していたのは、比較的軽度の患者が集められている病棟で、雰囲気は穏やかだった。
その理由を知れば驚かれるかもしれないが、Lがその病院に入院したのは警察官のひと悶着を起こしたからだった。つまり、措置入院というものである。警察当局のほうでは、Lを逮捕して拘置所にぶちこむよりも、精神病院に入れて治療させることが適切だと判断した。そういう単純な理由による。
なぜ警察官と喧嘩をすることになったのか、その理由はLにもはっきりとしない。ただ、Lはコンビニエンスストアで万引きをして、とあるビルの非常階段に隠れ、そこからコンクリートの欠片を通行人に向かってぶつけていた。通りがかった誰かが通報をしたのか、コンビニエンスストアの店長が通報したのか、Lには分からなかった。しかし、警察官は間もなくやってきた。
Lは階段の踊り場に立ち、勢いをつけて警察官の腹を蹴った。
「お、お前!」
と言って、警察官はLに掴みかかってきた。それから取り押さえられるまではあっという間の出来事だった。Lの頭には、その時の様子が今でもスローモーションのように蘇る。さすが手練れと言う他はないが、Lは後ろ手を掴まれ、そのまま腕を背中に回され、階段に体を押し付けられた。巡査が応援を呼ぶのを、Lはどこか冷めた気持ちで聞いていた。
「お前、いい加減にしろよ、なあ! いい加減にしろよ! ……ええ、そうです」
警察官が電話に向かって話したり、Lに向かって恫喝するのを、どこか遠くで見た光景のように、自分が今体験している行為ではないかのように、Lは感じていた。すべてが傍観者の気分だった。そして、一晩の取り調べの後、Lは精神病院に入院させられた。そこへと運ばれていく間も、Lは手足を拘束されたままだった。
精神病院では色々なことがあった。そこで、Lはまず隔離室に入れられ、2日間ほど身体を拘束されていた。その間も、Lは何も感じなかった。ただ、時折意識を失うように眠りに落ちた。
病棟には様々な人たちがいた。一日中念仏を唱えているような人、時折大声を出す人、暗く沈んだまま何も話さないような人、親し気に話しかけてくるが、何かあると途端にキレだす人、正常だとしか思えないような人。彼らの誰もが心に病を抱えていた。そしてきっと、Lもそうだったのだろう。Lが彼らを見ているような視点で、Lもまた見られていたのだ。
精神病院で親しくなった人たちは何人かいた。それが何の甲斐もないことだと知りながら、退院後の連絡先を交換した人たちもいる。病院の規則ではそれは固く禁じられていたのだけれど……それを守っているのは少数だった。
ある婦人は、3度の結婚と3度の離婚、そして3度の自殺未遂をしたと、Lに教えてくれた。その人は病院内でLが親しくした人の一人だった。
「こんな波乱万丈な人生はないでしょう? おまけに息子まで自殺しようとしたのよ? それで、わたしおかしくなってしまってね」
と、婦人は言った。その口調はどこまでも穏やかで、自殺未遂を繰り返してきた人間のようではなかった。後でLは知ったのだが、その人の病名は双極性障害ということだった。一方のLは統合失調症と判断された。
「明るくて良い人ねえ、あなたがいなければ、わたし一日でもこんな病院に耐えられないわ」
とも、婦人は言った。そんな感想が何か意外なことのように、Lは漠然と思っていた。
病院内ではレクリエーションやリハビリテーションもあった。それらは社会に復帰するためのもので、互いのコミュニケーション能力や注意力を身に付けさせようとするものだった。Lは疎外感を感じた。「自分は今まで普通に生活出来ていたはずなのに、何のためのリハビリテーションなのだろう?」と思った。
*母と父
Lが母親と最後に会ったのは、やはり精神病院に入院中のことだった。Lの母は大量のジャンクフードとカップラーメンを持って、Lの見舞いにやってきた。そんな母親を見て、Lの心は痛んだ。
昔、Lの母は健康と豊かさだけを重んじているようなところがあった。ジャンクフードなど決して口にしなかったし、栄養豊富な野菜や肉、魚しか食べようとしなかった。
「10円も無駄にしてはだめよ」
というのがLの母の口癖だった。
それが、今ではジャンクフードとカップラーメンを持って見舞いに訪れる。Lにはそれが腑に落ちなかった。と同時に、腑に落ちない自分を目の当たりにしても、冷静でいられる自分を感じていた。きっと母は年を取ったのだろう、そして性格が柔軟になったのか、こだわりが薄れてしまったのか。とにかく、Lの母は変わったのだった。
「元気にしている?」
と、Lの手を取ってLの母親は何度も繰り返した。その手も取るがままに任せていた。この病院では、時折誰かの見舞いにその家族が訪れる。友人や知人の訪問は許されてはいない。病棟に入れるのは、その患者の家族だけだ。Lとその母親が接しているのを見て、嫉妬している誰かもきっといるはずだった。
Lは、母親が持ってきたジャンクフードやカップラーメンの扱いに困った。だから、同室の患者や親しくなった人たちにそれを配ることにした。そういった母親の訪問が、入院中に2、3度あった。そのたびに、Lは気まずい思いをしなくてはならなかった。その気まずさも、精神病院に入院している者特有のものなのだろうとLは感じた。
3度の自殺未遂をしている、という婦人は、
「あなたはお母さんと仲が良くて良いねえ」
と言った。その理由は分からなくもない。きっと、その婦人も自分の母親との思い出を思い出しているに違いなかった。そこに確執があったのか、Lとその母親との間のように穏やかなものだったのか、Lは想像が出来なかった。その婦人にはどこか秘密めいたものがあって、いくら話を聞いてもそこには謎か嘘が紛れ込んでいるような気がした。
母親はその時末期癌のステージⅣで、Lが退院すると間もなく亡くなった。父親とLだけがその後に残された。Lの父の頑固さは昔のままで、Lと二人だけで暮らすようになってもそれは変わらなかった。Lは、なんだか自分が母親の代わりにされているような気がしていた。多分、それはその通りだったのだろう。
実家に住んでいるということは、便利な反面不便なこともある。何も隠し通せない、すべてが明らかになってしまう、というのが不便な点だ。Lの父はLに亡き妻の面影を見ていた。昔のように健康的で贅沢なものを食べたがった。Lが退院し、母が他界してしまった後は、Lが父親の面倒を見る番だった。
Lの父はLの入院中、一度も見舞いに来ることはなかった。どこか精神病や精神病患者というものを見下しているようなところがあった。Lの病気のことを恥だと考えていたのかもしれない。その娘に面倒を見てもらうということを、Lの父はどこか嫌がっている風でもあった。
H川の流れを見ている時、そんな父親の顔は浮かんでも、Lの母親の顔は浮かんでは来なかった。
(ここに母はいない)
と、Lは思った。
Lは死んだ人間にも魂が残る、とは思っていない。死ねばそれまでだ。それは眠りに着くようなもので、決して目覚めることがない。母親の最後を看取っていて、Lはそう感じた。そのことがLの自殺志願の原因になっているわけでもない。Lは、母親と同じ場所に行きたいとは思わなかった。
ただ、自分が自殺に失敗して、これから父のところに帰ることになれば、それはきっと気まずいことになるのだろう、とは考えていた。娘は再び狂人になった、とLの父は思うことだろう。そして、それを決して許さないだろう。それだからこそ、Lは今日にも死んでしまう必要があった。あるいは、Lの自殺志願の原因はそんなところにもあったのかもしれない。
*ニュース屋
「ニュース屋」と呼ばれる少年にLが初めて会ったのは、いつのことだったろうか。それが並川画廊というギャラリーでのことであったのは、覚えている。「ニュース屋」というのはもちろんあだ名で、その当時は中学生だったかもしれない。
Lに会うなり、ニュース屋は言った。
「お姉さん、死ぬことになっているよ。自殺だってさ。正確に言うと、この世からいなくなるんだ。僕はそのことを知っている。だって、未来のことが分かるからね。新聞にも載るんだ。それがいつのことかも知っている」
Lは、当然のこととしてニュース屋のことを不吉なことを言う少年だと思った。しかし、そこにはどこか真実味があるような気もしていた。自分はそんな風に見えるのだろう……と思えば、Lは納得することが出来た。たとえ、少年の口先から出たほら話だったとしても。
「わたしは死ぬの?」
と、Lは確かめるように言った。
「死ぬよ。人間なら、誰だって死ぬさ」
と、ニュース屋は答えた。
並川画廊というのは、まだ素人の学生だったり、駆け出しの画家だったりする人たちの個展を開いている画廊で、Lはよくそこに通っていた。画廊を経営していたのは、並川広子という年配の女性だ。誰にとっても親しみを感じさせるような性格で、とくに用事がなくてもその画廊を訪れる、という人たちは多くいた。
Lもそんな人間たちの一人だったかもしれない。Lは、時折個展を開いている画家たちと仲良くなったり、気に入ればその絵を買うこともあった。たいていはそれほど高い値段ではなく、彼らにとっても画材を買う程度の額にしかならなかったはずだ。とくに、銅版画を作っているある若い女性とは、誰よりも親しくなった。
(ニュース屋と会ったのは、彼女の個展を訪れていた時だ)
と、Lは思い出す。たしか、2年ほど前のことだったろうか。恋人と別れる直前か、その直後のことだ。どちらだったかは思い出せない。自分の顔に死相が出ていたとしても、おかしくはなかっただろう。
銅版画家の女性は、奥でオーナーの並川夫人と話をしていた。ニュース屋はたたみかけるようにLに話しかけてくる。
「お姉さんは自殺を考えたことはないの?」
「ないわ」
「お姉さんは今幸せ?」
「どうかな。まあまあかな」
「じゃあ、なぜ自殺なんてするんだろう?」
「わたしに聞かれても分からないよ」
「自殺願望はないの? 本当に?」
「ええ」
ニュース屋は困ったような顔をした。それでは筋が通らない、と思っているかのようだった。ニュース屋はふと思いついたように、
「お姉さん、自動車の運転は出来る?」
と聞いてきた。「ええ、出来るわ」とLは答える。
(なんだかわたしはこの少年の言いなりになっている)
と、Lは思う。その少年が「ニュース屋」と呼ばれていることは、後で並川夫人から聞いて知った。なんでも、その少年の予言はよく当たるという評判らしかった。その日、画廊にどんな人物が来るのかも当ててしまう、と並川広子は言った。
「じゃあ、それが関係しているのかな?」
と、ニュース屋はつぶやく。
(自動車が?)
と、Lは呆れた。自動車の中で練炭自殺やガス自殺でもするのだろうか、とLは思った。Lはその時、練炭というものがどこで売っているのかも知らなかった。ガス自殺くらいであれば、自動車のマフラーを何かでふさげば出来るだろうけれど……。
とにかく、ニュース屋と会ったのはその時一度きりで、それからその少年に会うことはなかった。そして、並川夫人の画廊を訪ねることも、Lは止めてしまった。芸術など自分には不釣り合いだ、と思ったからでもある。
H橋の上で自殺を考えている今、Lがニュース屋の言葉を思い出しても不思議ではなかった。ニュース屋が最後に言ったのは、「お姉さんは死んで天使になるんだね」という言葉だった。Lはその時、ただ苦笑して何も答えなかった。今思うのは、「死ぬということは、果たして天使になるということなのだろうか?」ということだ。 ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-19T16:56:49+09:00
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木枯のような音が一しきり過ぎていった。
そのあとはまたもとの静けさのなかで音楽が鳴り響いていった。
――梶井基次郎「器楽的幻覚」
*Lは雑踏の中にたたずんでいる
Lは雑踏の中にたたずんでいた。季節は3月。Lは空を見上げていた。雪。無数の淡雪が舞い降りて、そのうちのいくつかが彼女の薄い化粧をした顔に触れ、体温で溶けていく。
Sの街でもこの季節に雪が降ることは珍しい。それは、ほぼ一カ月ぶりの降雪だった。だからと言って、人々は慌てることもない。
Lは何も考えてはいない。雑踏の中にたたずんていることも。時折誰かの肩や手が彼女の肩や手に触れていくことも。気がかりなことは何もない。……そう、何もなかった。
<哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。>
Lは、昔読んだそんな文章を思い出していた。何に出て来た言葉だったっけ――と、Lは考える。そうだ、「Kの昇天」という小説だった。Lは思い出す。内容はあまり覚えていない。たしか、誰かが入水自殺をし、その観察者が主人公(?)は天に向かって昇っていってしまったのだ、と思う話だった。
それも、今のLには関係がない。ただ、空から落ちてくる雪がイカロスの羽根の欠片のように思えていた。
いつまでもそうしていたかった。空は全くのグレーで、そこに吸い込まれてしまいそうに思える。そう、小説の主人公が昇天してしまったように、Lは死にたいと思っていた。理由はない。ただ何となく、という理由でそうしたかった。
(小説の主人公のようにこのまま天に昇れたら)
と、Lは考える。しかし、それは「死」だろうか。あるいは「死」ではないのかもしれない。あくまでも、Lが望んでいるのは生命を絶つことだったから。
そのことにも理由はない。生活には満足していたし、それなりに暮らしていけるだけの貯えもある。Lは実家に住んでいるから、今どきの若者たちのように日々の稼ぎで苦労することもなかった。苦労知らずの自分――それが今は恥ずかしくもなく、ましてや誇りでもない。
この世の何割かの人間は貧しさの中で生きているし、この世の何割かの人間は豊かさの中で生きている。その中間で生きている人間もいるだろう。自分もそのうちのたった一人だと、Lは思う。生きることに理由はないし、同様に死ぬことにも理由はない。
自分が物語の主人公だったら――と、Lは考える。主人公が死のうとしている場面から始まるような小説は、そう多くはない。今思いつくのは、パウロ・コエーリョの「ベロニカは死ぬことにした」くらいだ。その小説も、最後は主人公は救われてしまう。きっと、今の自分なら違った結末になるだろう。
(わたしには先というものはない)
そう一人で決めつける。
こんな気持ちを認めてくれる人を求めていたわけではない。不安定な自分と一緒に暮らしていくのであれば、それは介護と似たようなものとなるだろう。Lは看護師を探しているのではなかった。未知な道を一緒に冒険してくれる相手を求めているのでもなかった。
彼女にとって「死」は魅力ではなかったし、何かの結論のようにも思えなかった。ただ、それは決められていて、今の彼女が雑踏の中にたたずんでいるように、何かの必然のように思われた。
(「死」は来るんだ、確実に)
ただそう思っていた。
雪の降っている空から、Lは前方に目を移す。その動作もあらかじめ決まりきったもののようだった。街の中にいる以上、人は何かをしなければならない。街の中にいて、何もせずにいるということはホームレスにだけ許された特権だ。そして、この街にホームレスは少ない。
Lの目の前には、点滅する青と赤の信号が存在していた。それは何か、自己の存在をアピールしているもののように思える。「生きようとしている人々」にとって、それは何かの意味を持つのだろう。しかし、今のLには点滅する信号が抽象画か何かのように感じられた。存在することで存在している、それ以外の意味はない。
そして、地下鉄の駅へと降りていく人々。移動にも何かの意味がある。帰宅するために、仕事へ行くために、娯楽に出かけるために、人は移動をする。つまり、そこには目的があるのだ。目的がないものは、地下鉄にも乗らない。
*Lは街の中を歩く
Lは歩き出す。何かへの反抗心からでもなく、何かへの従順な心からでもなく、ただ目的がないということのために。
Lはまず、北へ向かって歩いていく。北は「死」をイメージさせる。「極北」という言葉もある。北は誰にとっても因縁めいたイメージを残すものだろう。この期に及んで自分が求めるもの――というのを、Lは皮肉に感じていた。
アーケード街を歩いていると、人の数は増えた。銀行、ラーメン店、ダイニング・バー、喫茶店。今さらのように、Lはこの街の雑多な構成のことに思い至る。そこでは、清潔と猥雑とが同居している。それは、S以外の街にはない特徴だった。
ごく普通の街では、繁華街とビジネス街とは明確に区別されている。しかし、この街にはそれがなかった。オフィスビルの隣に風俗店が並んでいることもあれば、高価な宝石店の隣にリサイクルショップが並んでいることもある。それはまるで、生と死との混在、静と動との混在を思わせた。
(今の自分の気分にはふさわしい)
と、Lは一人ごちる。誰にも聞こえないような声で。
Lの周囲にいる幾人かは、Lが狂気に駆られていることに気づいていただろう。何も見ずに、何の目的もなしに歩いていくということはそういうことだ。Lはかつて見た光景を肌で感じ、第六感で分析している。
(この街は自分にふさわしかったのだろうか)――と。
Lが死にたい気持ちはたしかに必然だった。それは、Lの曖昧模糊とした精神からもたらされたものだったろう。恋人とは2年も前に別れていたし、仕事を辞めたのも3カ月も前の話だ。Lは決して落ち込んでいるわけではない。そして、うつ病でもなかった。ただ、死に招き寄せられるように、それに向かって歩いていた。
Lの街にはY橋という自殺の名所がある。峡谷の上に架けられた橋で、100メートルほどの高さがある。そこから飛び降りれば、死ねることは間違いなかった。
かつて学校の教師から聞いた話では、Y橋にはかつて鉄条網が張り巡らされていたということだった。しかし、自殺志願者たちはそれを乗り越えて下へと飛び降りてしまうのだという。「自殺したい人は痛みを感じないからね」――と教師は言った。そのY橋も、今は鉄条網ではなく、防音フェンスのようなもので覆われている。
防音フェンスの上部は内側に向かって折れ曲がっていて、つまり、以前よりも飛び降り自殺がしにくくなったのだった。今でもそこが自殺の名所なのか、Lは知らない。ただ、自殺志願者が死の前に痛みを感じることはもうないだろう、とLは考えた。そして、
(そう言えば、自殺志願者は痛みを感じないのだったっけ)
と、思い直す。
Lは自分の右手で自分の左手をつまんでみる。そして、若干力を入れてひねる。Lは痛みを感じた。それは「生」の痛みのはずだったが、Lにとってそれはあまりにも茫漠としていた。「生きているから痛いのではなく、痛みを感じるシステムによって痛いのではないかしら」――と、今度は具象的に考えてみる。
北へ向かって歩いていると、H通りに出た。最初にたたずんでいた青江通りと比べると、そこには並木がないという違いがある。それが一層空の暗さと、そこから舞い降りてくる雪を際立たせているような感じがした。通りを歩く人々も、ここではいくぶん寒そうにしているように感じられた。
(なぜ、死にたいのだろう)
Lは、そこで再度思い直す。通りを行く人たちのいずれも、幸せとは行かないまでも不幸ではないようだった。それらの人々に比べて、自分が取り立てて不幸な訳でもない。ただ、死んで悲しむ人の数は少ないだろうと思えた。
「あの子は初めから死ぬことが決まっていたんだよ」
誰もがそう言いそうな気がした。
*H橋
交差点までやってきた時、Lはそのまままっすぐ歩道を渡ろうか、それとも右か左に折れようかと迷った。右に行けばS市の中央駅に、左に行けばH橋のほうへと行くことが出来る。H橋のたもとには、Lがよく通った喫茶店や図書館があった。そこからさらに北へと進んでいくと、Lが卒業した高校がある。
迷った末に、Lは西に向かっていくことに決める。川の流れが見たかった。
雪はその時小止みになって、すでにLの顔や衣服に触れることはなくなっていた。これくらいの雪や雨であれば、Sの街に住んでいる人々は傘をささない。もちろん、その時のLも傘をさしてはいなかった。ふと、肌に触れる冷たさがなくなったのをLは感じる。「冷たさ」=「死」ではない。当然、「冷たさ」=「生」でもなかった。
生きたい、という欲望を喪失したのだろうか。それとも、自分は何らかの快楽に憑かれているのだろうか、とLは考える。ハンドバッグの中からMP3プレイヤーを取り出して、Lはそのスイッチを入れ、ボタンを押した。ミレーヌ・ファルメールの"Dégénération"が流れて来る。Lは、自分に酔っているようではなかった。
H橋の下を流れる川の流れは、雪解け水で増水しているように思えた。
(ここへ飛び込めば、わたしは死ねるかもしれない)
と、Lは考える。そして、鞄の中から二冊の本を取り出した。「聖書」と「死の家の記録」。このごろずっと読んでいた本だ。それぞれを右手と左手に乗せて、重さを計ってみる。どちらも同じくらいに感じられた。
もし、右手のほうが重ければ上流から、左手のほうが重ければ下流から、Lは川の中へと飛び込むつもりだった。しかし、どちらも同じような重さに思える。このタイミングで神様が気まぐれを起こしたわけでもないだろうに、とLは考える。判断力の低下? そんなことも思った。
(死は必然だ)
と、Lは改めて思う。3月の初旬。まだ冬の気配が残る季節。誰もが花粉症の話題を口にし始める季節。その季節の中で、女が一人自殺したことなど、ニュースにもならないだろう。テレビやラジオはそれぞれの理由で忙しい。つまり、それぞれの社員の糊口をしのぐために。Lの人生にはそれは関係なかった。
友人がいないわけではない。しかし、Lの死を悲しむ者はそうはいないだろう。「やっぱり」と、皆は思うに違いない。今の時代、「神経衰弱」などという言葉は流行らない。今では、「神経症」という名前に変わっている。それは明確に精神疾患の一つで、狂気のことではない。Lが狂女かと言えば、そういうわけでもなかった。
ただ、Lはなんとなく生きていて、なんとなく死んだのだと、友人の誰もが思うだろう。だから、涙は流さないかもしれない。それで良い、とLは思う。今までそのために振る舞ってきてもいた。彼女にとっては、「死」が必然だと皆に思ってもらえるために。
LINEやメールでは「死」という言葉は使わない。自殺を連想させるような言葉も。ただ、Lは彼女が生きてはいないかのように振る舞うのが得意だった。何も感じず、何にも動じず、何にも感動しない、そういう冷たい女性に見せかけるのがうまかった。しかし、友人の皆がLは明るい女だと思っていた。
その不思議さを、Lは今になって考え直している。
(わたしにとって、死は必然だ)
だから、皆は驚かないのだ。というのが、彼女にとっての答えだった。あるいは、死後の彼女の感情を先取りして、死後には何が起こっても何も感じない、そういう予測が彼女の今の心理を決定しているのかもしれなかった。
しかし、ここは自分の死に場所ではない、とLは思う。この高さからでは死ねない、と思うからではない。入水後にもすぐに浮かび上がってきてしまう、と思うからでもない。誰かが彼女のことを発見してしまう、と思うからでもない。ただ、ここは自分の死に場所ではないような気がした。そして、誰かが止めに入ってしまうかもしれない。いかにこの街の人々が無関心に慣れているからといって、自殺志願者を放っておくことはないだろう…… ]]>
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散文(批評随筆小説等)
2023-12-19T16:55:25+09:00
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熊穴に入るわたしも休もうか
冬の海名付けるならばマドレーヌ
曇り日がいや増しにする寒さかな
天に上る白鳥のごとこころ消ゆ ]]>
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俳句
2023-12-07T17:41:53+09:00
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廊下の冷たさ足温める束の間や
南天の実を目にし過去に飛ぶ
{ルビ夜半=よは}の鳴き声に白鳥の神髄
すっかりと沈黙が覆う三島の忌 ]]>
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俳句
2023-12-06T18:50:07+09:00
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木星とともに歩むは冬の月
冬の雨降られる前に買い出しへ
小春日の道の遠きは定めとて
白鳥は魂を乗せて夜の空へ
風邪を引き辛い時季にも幸福はあり ]]>
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俳句
2023-12-05T22:22:51+09:00
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姦しや冬寒の月は上弦で
冬ざれの野には野の想いがあり
乾かない髪に触れて確かめる冬
冬苺口にほおばる我と父
狐火を追いかけてなお過去の時 ]]>
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俳句
2023-12-04T16:57:39+09:00
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手足荒る冬場のきつい水仕事
風凍る空の晴れ間は眩しくて
山茶花の香りだになく時は過ぎ
宙天は神秘の趣き冬の宵
木枯らしの吹く夕暮れに月はなく ]]>
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俳句
2023-12-03T22:54:56+09:00
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{ルビ天=あま}冴ゆる我は天使を空に見し
寒さに負けじとの思いが我を推す
たま風や遠い亡霊を訪ねおり
燗酒をあおる父の背は寂し
カトレアに思いを託して今日もまた ]]>
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俳句
2023-12-02T13:43:03+09:00