多様化する倫理観[937]
2005 06/20 06:03
不老産兄弟

いかいかさん
話は変わりますが

>>882
>私は、奥主さんのような人間を許すことができないんだよ。弱さを認めることで、例えば、「人間は矛盾している生き物だ」と自分で認めてしまうことで、自分の生き方を肯定する人間が嫌いなんだよ。それで、貴方は本当に正当化されるのだろうか?本当に貴方は許されるのだろうか?私はそうは思わない。例え、人間が本質的に矛盾していようとも、それを認めてしまってはいけないのだと思う。それが、課せられるべき責任だろう。

と発言をしているいかいかさんですが、一方では
>>894
>「詩は、読者がいない。詩を書く人たちは、そう嘆く。詩はもっと読まれるべきだと考え、人前で自分の作品を朗読したりして、読者を求めていく人もふえた。 
>自分の詩が読まれたいという気持ちは誰にもある。読まれることはたしかにうれしいこと。でもほんとうに詩は、読まれていいのだろうか。読まれることはむしろこわいことではないのか。読まれてしまったらおしまいではないか。自分のことばが、はだかにされたらこまるのではないか。ぼくはうすっぺらの詩を書いているので、あまり人に読まれたくない。特に、きびしい目をもつ人には読まれたくない。乱雑な詩を書いて、人から文句もいわれずに、のんびり生きたいと望む。うすっぺらな詩を書かない人は、そんな心配とは無縁だろう。 
>詩は、読まれることをほんとうには求めていない。人に読まれないからこそ、詩は生きることができる。それは少しもうしろ向きの考えではない。むしろそのことが詩を前向きなものにする。 
>読まれないことは、わかっている。そのうえで、考える。もし読まれたら、どうするのか。突然、誰かが路地裏の店に入ってきて『見せてください』といわれたとき、腐った林檎を出すわけにはいかない。そのときのために、少数の人のために、きびしい目をもつ人のために、はずかしいものは書けない。用意だけは、しておかなくてはならない。詩は個人のことばとはいえ、その個人のことばであることに甘えない、しっかりしたものを書いておかなくてはならない。そのために、ものを考える。ことばを吟味し、新鮮な、意味のあるものにしておく。それが心得であると思う」 
このようなスタンスをその通りだといっています。

「読まれたいという気持ちは誰にでもある」
「読まれることは確かにうれしいこと」
といいながら
「読まれたくない」
という気持ちを同時に持つということ、これを矛盾とは言わないのでしょうか。

読まれることが「うれしく」もあり、「こわく」もあるという矛盾を受け入れることなしに、さらにわかりやすく言うと、「うれしさ」と「こわさ」という共存する二つの感情を併せ持つ「人間の本質」を肯定することなしに、「人に読まれないからこそ、詩は生きることができる。それは少しもうしろ向きの考えではない。」という考え方は導かれないだろうと思います。

なぜなら、
読まれることが「うれしい」だけならば、人は「詩がもっと読まれればいいのに」と考えるだろうし、逆に、「こわい」だけならば、「詩を書こう」という気持ちすら失せてしまうだろうと思うからです。

>>936
#こちらの論理的な論証どうこうではなく、それについていかいかさんがどう思っているかではないでしょうか。
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