多様化する倫理観[53]
2005 04/20 14:54
不老産兄弟

ペドフィリアの人権の保護と言う名目で、幼児が危険にさらされると仮定すると、「性的弱者の保護」と「性的マイノリティの人権の保護」は対立したものであるかのように捉えることが出来ると思います。実際、今まで自分自身もそういった考えを持っていたことを否定できません。

吉祥寺さんと奥主さんの話を聞くことで、これら二つは「暴力からの保護」と言う意味では共通しているように思えてきました。
>奥主さん>あらゆる暴力は、その根源に「人間の剥奪されてはならない尊厳を否定する」という要素を持っている。だからこそ暴力は否定されなければならないのだと思っている。一概にまとめられない繊細な問題ではあるのだけれど、僕の発想の基本的な部分はここにある。>不幸なことに、そうしたことを否定されたとき、人は「極論」を選ばざるをえなくなるかも知れないと思っている。

「歪んでいる」とされる性嗜好を持ち合わせた人々は、自分自身のことを「歪んだ」人間であると思い込み、受け入れていくことを余儀なくされる可能性はあるだろうと思います。殺人、レイプ、その他の性犯罪は、初めからその善悪の判断がつかない人間は別として、自分自身を「殺人をしかねない人間なのだ」という認識をもつに至るまで歪めてしまった結果であるのかもしれません。

一方で、吉祥寺さんの作品中にはこう書かれています。
>不特定多数の男性と寝てる女性だから、襲っていいとか聞くけど、>それは本当に? 不特定の男性と 寝て? いたのか。>たんに食事食べにいったとか、だけでもそんな風に見られる。>例えそうでも、拒否しては受け入れられ無い。
>不特定多数と同時期に寝ていた女性だから、襲っても喜ぶとか、>そんな奴はレイプされてもいいはずだとか

この被害者の女性は、「自分がレイプされても仕方のない人間である」というところまで、自らのアイデンティティを「歪めずにはいられない」状況に追いやられてしまったと考えることが出来ます。

これら二つに共通していえるのは、その形態こそ違えども、「暴力」の被害者であるということなのだと思います。そして、これらの暴力に共通する定義は、奥主さんの言葉を借りれば、「被害者の自己の尊厳」を「剥奪してしまう力」に他ならないのだと思います。

上のどちらの場合においても、人々をこれらの「歪み」から保護することが、「人権の保護」につながっていくのではないでしょうか。
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