2005 01/26 22:53
田代深子
>1
いろんな意味でリンク重いぞ 俺は大きくなくていいから白くて丸い乳がすきー
しりはむしろ小さめで流線型のラインに飽きがこない 飽きがこないね
>2
うむ。
ごっちゃになっている場合が多いよね。特にネットだと"発言"が"文"であるから、
それで "発言" "作品" "詩" "批評" …なんでも各人の定義でひとりよがりな論理が進む。
"言説"という言葉で、それらをひとくくりに規定することも、できなくはない。そうすれ
ばケンカの言いがかりには便利だ。なんでも「お前の "言説" にむかついた」で済む。そ
れから"言葉"。これは使い勝手が心地よいが、"言説"よりなお難しい。広義すぎるから。
「バトル・リング」で佐々姐に、「"批評"とはなんであるか」現在の私にはわからな
い、と書いた。これはちょっと前の文からの流れから言うと矛盾になったかもしれない。
説明不足だった。(まあここで書くのはどうかとも思うけど、むしろたみちゃん宛てにし
ておいて、読みたい人だけ読んでくれれば…悪いね。)
私はよく「批評も創作だ」と言っている。この際の"批評"は、よくお目にかかる文芸批
評や社会的時評などのような、思考と知識と文章によって為される、ある対象への論理的
アプローチのことを考えている。対象を分析し、そこから新しい視点と方向性を生み出す
のだから創作だ、と。
しかし、たとえば「社会に対する"批評"とは"行動"でなければならない」という猛烈な
態度もありうる。また、ある対象への論理的アプローチでなくとも、芸術的創作作品が他
作品の批評となるような場合もある。つまり、小説を映画化したときに、その映画が原作
小説の新解釈になり得ているような場合。そうなるとなんでも"批評"と言えてしまうが、
私にはこれらを否定する意志も根拠もない。
そもそも"批評"はなしうるのか?という問題をどうしよう。言説化しえないさまざまな
ものを、自分の論理で分析していくこと自体が、"客観性"という鉈をふりかざす暴力にす
ぎないのではないか…まあ、そこまで内省的になる必要はないとは思う。なにしろ沈黙し
てしまったら、何も始まらない。
さて、だから私は"批評"を、この現代詩フォーラムにおいては狭義に限定し、できるだ
けストイックに使いたいと考えている。これは私だけの決め事だが。すなわち、あるまと
まった"作品"に対し、あるまとまった文量と考察と方向性で分析を加えた論説、とするこ
と。これは便宜的にそうしているだけなのだが、"批評"を暴力の道具(もしくは暴力その
もの)にしてしまわないためには、それなりに有効だと思っている。もっとも、何をどう
評されても辛い、あるいは何をどう評されても非難としか受けとめられない人には無意味
だし、それこそ黙るしかないだろう。
まあ、とりあえずそんな感じのこと考えとるのよ。