バトル・リング[513]
2005 02/07 09:26
石川和広

例えばhttp://www.tufs.ac.jp/ts/society/soziokultur/page033.html
を読んでみると参考になるかと思います
第三部の「デンマークの福祉政策とジェンダー」
少し荒いですが、北欧諸国をとっても、福祉先進国といわれるけども
色々な思想的な、そしてそれが、社会政策に様々な違いと問題を含み
近隣のナチスのこともからんでますから
日本の帝国主義とどう違っていたかをかんがえないと
「外国」は進んでいる式の議論になりかねません

イデオロギー、モラル、エティック、マキシム
様々な言い方がありますが

そもそも、賢治のメモといわれるものと
中也の「春日狂想」とは、作品形態からしてちがいます

中也に、ある社会性が欠けていたのは、加藤典洋が「この時代の生き方」1995講談社で指摘しております。
また、その社会的な倫理の次元の欠如からしか、中也の詩句は生まれがたかったとする論者もおります

さて、死別の悲しみを、救済者の倫理に、中也がたかめたかったのか?

わかりません
我が児を失うというのは、妹を失った賢治と、状況、個体性、宗教観やはりちがいのある問題かと思います。
春日狂想は、死別の苦の、直後の表出であり、永訣の朝と比較するのが
妥当かと思います

もちろん、賢治の倫理もまた、吉田司の「宮沢賢治殺人事件」というルポライターが指摘するように、逆風の中、賢治と差別や、汚れと清潔に関する重大な問題をはらんでおることをしめしました

ありていにいって、僕個人としては、中也のような「奉仕」の使い方は、湧き上がる、死者を媒介とした、何か巨大な悲しみに仕え、そこからたちあがる身振りであり、戦時下の
「奉仕」と、連結するには、相当な慎重さが必要と思われます。

むしろ、弱い、守りを必要とする個の露呈に見えます

賢治のメモはまた別の段階かと思う
賢治の救済感覚の是非は置くとして

sage
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