バトル・リング[316]
2005 01/26 00:11
佐々宝砂

ねむいけどねむれないので続ける(なにやってんだか
「感動した話スレ」にも引用した文章なのだけど、ここにも引用しておきたい。

> だから、言葉が問われる。一昨年、『責任と正義−リベラリズムの居場所』(勁草書房)を出した北田暁大・東京大助教授(社会学)は、レヴィナスからデリダに連なる「無限責任論」を尊重しつつも、その限界を指摘してやまない。共同性を語る「われわれ」という言葉に最初からあきらめを抱いた、より若い世代として、無限の応答責任があることを受け入れない他者、その重さに耐えられない他者の存在も真剣に考えられなくてはならないと思っている。

>「問題を公的な場所に引きずり出す理由づけや手順をていねいに考え説明するのが、これからの自由主義を前提とした社会の課題だと思う」

> 自由と責任。両者の可能性をつなぐ切実で繊細な言葉。そして閉塞に耐えることが、どんな時代にも増して問われている。

>(藤生京子/朝日新聞夕刊12面「ネオ・エチカ」より)

感動したというより、これは、考えるべき内容だと思うんだな。私は>>103発言のなかで他人を弱者呼ばわりしたけれど、確かになにげなく鈍感に発せられた私の言葉はきれいではなかったけれど、弱者って言葉は罵倒? 誹謗? 違うとおもう。弱者というのは社会のなかに常に存在しているものであって、庇護されなくちゃならないので、弱者は弱者と呼ばれて区別されなくちゃならない(げんみつに言えば、「区別」は「差別」でもあるけれど、それはさておく)。自分の発言に責任を負えない人、他者からの批判を受け入れない人はある意味弱者であって、弱者であることを責めてもしかたないし、強くなれと言っても酷だし、そういう人は保護下におかれて、批判から逃げたり責任逃れを続けたりしてもいいんだと思う。だから私は、「ケンカを買いたくない場合は、買わなくてもよろし」「ケンカ嫌いなみなさまはごらんにならないようおすすめします」と書いた。

けっこう微妙な話なので、わかってもらえるかわからんけど、これはつまり未詩の話でもあって。批評禁止の未詩にばかり投稿する人というのは、つまりは一種の弱者だと思うわけ。未詩に投稿するなとは言わないけれど、未詩にばかり投稿する人が他の人の文章を批評しようとするなら、私はちょっと矛盾を感じる。自分は保護下にいて安穏としてるのに、他のものを批判しようとする、そんな態度、ありかな。いや、実際にはそういうことは少なくなくて、具体的に名前を出すなら、現代詩フォーラムでのいとうさんのふるまいは、自分は保護下にいて、他のものを批判しようとするものだったと思う。

さすがにねむくなってきたので、中途半端だけどこのへんで。sage
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