2005 01/18 00:04
石川和広
ぼくは、カウンセリングを受けていますが
ぼくのカウンセラーは、玄人なので、へんに慰めたりはしません
それどころか、ものすごい痛いところ突かれて
しかし後で、そこがツボだったと気づくときがあります
ちがったら、僕も怒る。当たり前だ。
まあ、いろんなカウンセラーがいるのですよ
どこの業界も同じです
相性、状況、ほとんど縁としか言いようのないもの
それぞれのセラピー、手技、方法。解体、結合のツボをどうおさえるか?
こんなのシステムの話はね、いくら医者がいてもヤブダッタラ
つぶれるかも、つぶれないかも、そんなの、その人たちの
力にかかってるわけです
僕は、システム構築の話は、詳しくないんだが、商売は手を汚してやるもんです
働いてない僕にいわれたくないだろうけどね
つぎに、喜んでお迎えする、べつにうれしくなくても、どんな店だっていらっしゃい
っていうやないか、「ようこそ、ここまで、足をおはこびになっていらっしゃいませ、ありがとうございます」の略でしょ
批評だって、それが注文のない料理店みたくでも、作品と作者がまんまときちゃうわけで
これを、「他者」といってもよろしい
なんか、昔の批評家って、江藤淳だって、吉田健一だって、だれでもいいや
もう少し命がけだったよね
作品ってこわいからね
なれあうことができないなあ、僕は
まあもう少し年をとれば、そうなるのかも
わかんないけど、
ほとんどの方が、真面目な詩、不真面目な詩なんて区別があると思ってる
しかし
詩は、こういうものだというより、
厳しかろうが、手ぬるかろうが、書いちゃってる何か
形成しつつあり、そこに、水をやる、踏み潰すは、どうぞご勝手にですわ
まず、最初に、読む時点から、これは最低限、肯定です
読む側の事情もあるもの、俺だって、くだらねえと思う詩は
自分が何かいてんのと思いながらも、目をそこに
あるいは耳、手でも良いや、遣るわけだから
そこからして、批評って、ただ事ではないのだと思う
で、いかいかさんの話だけど、僕は「馴れ合い」というのが
あるかないかはしらない
しかし、不定形な生存の形態をどうにかこうにか、取らざるをえないヒト
というものの、馴れ合いというか、惰性は宿阿ではあるが、
だって、さびしいじゃーん、疲れるときもあるじゃーん
そっから、どう維持しつつ、弱くも強い人間の打ち込むあえかなる文字を
いかしめるシステムには、実はたくさんの穴があって、多少、ええ加減に
できてる方が人間の生理にかなう訳ですが、パターン化してるように見える
ラインがあるのか、ないのか、これじゃあグチャグチャでわかんない場所ですな
でも、スレオペが無茶苦茶になるといってるから、ねがったり、かなったりじゃないですか?