映画館ポエム座[345]
2011 01/12 01:35
渡邉建志

sage
「ノルウェイの森」を見た。村上春樹・トランアンユン・レディオヘッドの互いに尊敬しあう三角形は最悪の結果を生み出したと思った。村上はトランを信頼するのではなくせめて直子のオーバーアクション+そもそものミスキャストに関して口をはさむべきではなかったか(原作と映画を結びつけて考えるべきではないとわたしは考えるが(映画は映画だけで評価されるべきだから)、原作を愛するものとしてひとつだけ禁を破ると、村上は直子の気が狂って叫ぶシーンなど書かなかったし、直子が自殺するシーンを書かずに、最後の章の最初の一文に悲しいぐらいさらりと地の文で「直子が死んだ後、」などと書いていたはずで、ぼくはその拍子抜けなあっさりさに逆に死を悼んだはずではなかったか?そこで、直子の浮いた足が、土の中をはだしで歩いてきたように汚れているというようなリアリズムなど、誰が求めているだろうか?京都の直子は、ワタナベにとってもう自己完結、完成してしまった美しい円環であって、だからこそあの完璧な裸体の美しい場面があるのに、トランはつきに浮かぶ完璧なヌードと言う絶好の映画的風景からは逃げ(「こんにちはマリア」のゴダールなら完璧に撮れたはずだ)、京都でもセックスを試すふたりという、原作ファンの誰も見たくない、どうしようもなく原作の本質と正反対のシーンを長々と撮ってしまう。その一点だけは許せなくて体がわなわなした))。直子は「素のままで」円が閉じている美しい女優が演じるべきであって、それはミリアム・ルーセルや、中尾幸世や、トラン・ヌー・イエン・ケーではあるけれども、菊池凛子が「自分にはないひと」を演じたと明言している演技など、その演技性を見抜けない人がいるだろうか。逆に演技慣れしていない水原希子のともすればすこし恥ずかしげに長いせりふを早く話してしまう初々しさを、ゴダールと並んで世界一女性を美しく撮るこの監督は、その能力を惜しみなく発揮してフィルムに収めている。実際この映画で美しくなく(ほんとうに!)撮られているのは直子だけなのであって、レイコさんまで非常に美しく撮られている。直子というキャラクター把握を(ワタナベ的には)間違えているとしか思えない。直子はあくまでもワタナベにとって至福の存在なのであって、この映画はあえてワタナベ視点ではなく、ワタナベが原作で見えていなかった現実を描こうとした、新解釈をとろうとしたと考えるべきだろう。以上は映画に対する正当な批判ではなく、原作ファンのひとりよがりだ。
しかし、それにしても、あの「青いパパイヤの香り」「シクロ」「夏至」の寡黙なトランはいったい、いったいどうしてしまったのか。ジョニーの音楽が酷すぎて映像に集中できない。監督が断ることもできたはずだ。武満徹が言うとおり、映画音楽は「映像が自ら鳴らしている音楽」があるときには入れてはならない。映画音楽とは引き算の仕事のはずである。そしてジョニーは泣き叫ぶワタナベにこれでもかと不協和音を上塗りするのだ。観衆を信頼しない上に下品だ。この海辺のシーンはほぼ「夢の島少女」だったので、池辺晋一郎の仕事振りのすばらしさを思い起こさずにはいられなかった。そして粘度の高いよだれをたらして泣き叫ぶ松ケンがすばらしかろうと、それを大音響不協和音と、クローズアップで迫ってしまうジョニーとトランの倫理に、「マザー、サン」での男の号泣シーンで泣き顔を決して写さなかったソクーロフの高貴さを比べずにいられなかった。そこでは静かな森のざわめきしか聞こえず、カメラは木に顔をうずめて泣く男を、森の高いところから見おろしていた。もう一つのシーンでは、ソクーロフは泣く瞬間の男をクローズアップするものの、その顔は画面の外に外れ、ひとつ引き攣った嗚咽を漏らす瞬間にわれわれが見るのは、最大にクローズアップされ大きく横に動いたのどぼとけだけだった。その嗚咽の凄まじい響きをわたしは一生忘れることはないと思う。
スレッドへ