2011 05/24 10:14
……とある蛙
>>27
>技巧と関係なく切り口ということであれば、多少順番を変えたり言葉をぬかしたとしても、もとの切り口が残っていれば、作品としての評価はあんまり変わんないってことでしょうかね?
ある程度の評価はされると思いますが、技巧の問題は切り口の削りだしを効果的に行うことは不可欠だと思いますし、試行錯誤すべきことかも知れません。
※合唱の話で申し訳ないのですが、「鴎」(作詩三好達治、作曲木下牧子)という合唱曲の主題とも呼ぶべき部分{ついに自由はかれらのものだ」という部分の「ついに」はどのように歌うべきかを指揮者から何回も指摘されたことがあります。この「ついに」は「自由」につながって膨らませる部分で、ニュアンスとして開放的な感じが欲しい。つまり、インテンポでマーチのように歌うのではなく「ついに」は全ての人が待ちかねていたというニュアンスが欲しい。つまり、積み上げてと到達した「ついに」ではないということです。指揮者の指揮で一斉に歌い出すと、どうしても間違いではないがニュアンスが違う。結局、歌い出しを全員が意識して一斉に解放されるように歌い出し「自由」へつながらせる。この歌い出しの部分は技巧的な問題なのですが、その前の部分の「ついに」の解釈はこの曲に対する指揮者の切り口ということになります。
切り口等と言うことはブライは一言も言っていないのですが、内面を表現するには不可欠な到達すべきイメージとして私は捉えています。
>>31
カメラが視点という意味であれば、おっしゃっていることは納得できます。
ブライは人間は内なる世界と外なる世界の2つの世界の住人だと捉えて、その2つのリアリティーのつながりを近くさせるのが詩人の仕事だとしています。そのリアリティーをもたせるための技法として視点の移動とか揺れがあります。トウモロコシ畑の第1連3行目の引き裂かれる「からだ」は原文では「The body」であって「My body」ではないのです。一言で視点が揺れています。
>>32
切り口を見せるための技巧なので、おっしゃっていることは正しいとは思います。ただ漫然と技巧に奔っても誰も感動しないことはいうまでもありません。
思いつきで書いていますので。
もう少し書きたいことはあるのですが、また整理して書きます。