詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part1[886]
2011 04/25 10:23
……とある蛙

 スパゲティ屋の片隅で詩人では無い僕は、テンプテーションズのMy Girlを聴きながら、古本屋で買った、時代遅れの寺山修司の「暴力としての言語」を読んでいます。

下から上に向かうのがバイオレンスで、上から下に向かうものがフォースという。権力はフォースだというが。走りながら読める詩があるか。バイオレンスとしての詩は結局マスにはなり得ない。つまり読者と詩人との関係は友情で結ぶしか現代詩の生きる道は無い。などと

 一遍の詩を生み出すには たくさんのものを打ち殺さなければならない と田村隆一は言うが それは違うと思う。
なにかと引き換えにできる詩は限界がある。詩は詩だ。

猿轡を取って謳いかつ叫ぶ必要はある。何か今の現代詩はカタワのような気がする。詩に自立性が求められ、リアクションも臨場性もインプロビゼーションも失われた。吟遊詩人の時代はあるにしても、あまりにも太古のことなので今では欠片すら実感できない。だからといってこのままでよいのだろうか?

詩は出会いによって生まれ、言葉によって生まれるものではない。1行がさらに1行を産んで詩は生成されて行く。
 現代においては所詮実用性の欠ける文芸である詩は作者と読者という出会いと関係性に依存して読まれるしかない。そこのところを自覚してさえいれば、詩を読む最大の動機は読者と作者の友情であっても良いとする思える。

ッてなことがこの本を読んでいると実感できます。傲慢ですね。現代詩は。
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