詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part1[684]
2011 01/01 12:58
……とある蛙

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

ところで、書くこと当番はもうあけましたでしょうか。少し不安です(笑い)。

アメリカ現代詩を読む 金関寿夫著 1997年 思潮社刊 の中からインディアン詩を中心に参考になりそうなところのMEMO


めちゃくちゃ難解だが、ひどく洒落た詩を書くジョンアッシュベリー

クールでウィットに富み、ときにシニカルな都会的なもの

飯島耕一
詩人は都会の風俗より「蛇の健康をもっと気にすべきではないか。そして、あとは自由にやるがよい。」
ルネ・シャールのアフォリズム「蛇の健康のために」

密室遊戯としての下劣なスノッブの言葉遊び

1 赤い手押し車 漁師の家の情景
  俳句や短歌のような「眼前体」の詩の可能性
  ポピュリストと日本の批評家から無理に解釈されたウイリアムズ
2 エリオットとパウンズの評価
3 ビート詩とディランの歌詞
    風に吹かれて ミスタータンブリンマンなど優れたバラッドの系譜

(アメリカインディアンの口誦詩)

「ブラックエルクは語る」スー族の語部
何層にも重なった意味を讃えるバラッド
 ?社会史的意味興味
 ?宗教心理学民俗学的興味
 ?文学的詩的興味
滅びの美学
「あの血に染まった泥のなかで、確かに何か別の物が死んで吹雪の下に埋まっていった。‥‥私たちの同胞の夢もあのときに死んだのである」
ヴィジョンの中の6人の祖父など
詩ではなく老人の語りではあるが、詩的要素が強い。
近代詩のような個人の叫び・言語美の表現は無い。
一つ一つの言葉の持つ霊力、言霊があるため詩的なのだ。
すべての行動は丸いという円に関する叙述など
すべての形は丸い。空も大地も太陽も月も

ケネスレクロスの研究、ゲーリースナイダーなどの指摘があるにもかかわらず、米文学史のアカディミズムは文学として容認していない。
口誦詩自体に対する理不尽な軽視あるいは無理解

※いわゆる近代文明の文学が有り体に言えば本質的には知的娯楽に過ぎないという側面を持っている。インディアンの口誦文学は生活に密着した実用性機能性を持っている。この実用性というのは宗教ないしは神話の裏付けある物で、近代人の言う魂の叫び、言語美の表現の詩作以前つまり文学以前の行為です。

歌の発生に儀式が伴う。
古代への回帰とは言わないが、口誦文学を軽視していることは知的傲慢と言うかほぼ間抜けな態度であろう。古事記を無視して日本の文学史は語れないことを思い起こすべきである。
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